テスト

敦煌(沙州)

 夏は40度冬はー30度

人口15~18万 年間50万人の観光客が訪れる 

その昔 敦煌は聖地でもあり巡礼地でもあった すべての道は敦煌に通じてた 紀元前2世紀 漢の時代 匈奴(北方)の防衛拠点として造られた町

莫高窟
 

 

4世紀 敦煌 莫高窟で石窟作りが始まる 一人の僧が この地に金色に輝く光を見て 崖の中腹に石窟を掘りだしたのが始まり

南北1.6キロ 全745窟からなる石窟は4世紀から14世紀にかけ 約1000年かけて造られた  その多くは唐の時代に作られた年

間降水量 44ミリ 日本の44分の1

非常に乾燥した気候でカビが発生しにくく壁画保護に役立った

現在の敦煌市民は18世紀の清の時代移住してきた漢民族がほとんどだが

莫高窟が彫られた(作られた)4~11世紀にかけて 様々な民族がすむ華やかな国際都市であった

(336年) 一人の僧侶によって莫高窟が造られた

最初の壁画が描かれてから1600年がだった  完成当時の壁画は漆(うるし)と金粉が塗られていた

(6世紀) 300年続いた戦乱が終わる 589年 隋王朝 38年間で100の窟を増設

隋代 仏教は国を挙げての一大事業 てんらいしゅうが生まれ 法華経ができる

617年 唐王朝が始まる 都は長安(西安)唐が繁栄をおうかしていたころ 吐蕃王朝が勢力を伸ばす

756年 安史の乱で 吐蕃(チベット)が台頭する 唐が統治していた敦煌も11年の抵抗ののち吐蕃に制圧される 吐蕃の支配は70年続いた

815年 唐15代皇帝は大きくなりすぎた仏教に対して弾圧をする 4800の寺院を破壊 僧侶26万人の財産没収

唐の多くの僧侶は吐蕃が制圧した敦煌に逃げる 仏教を信仰していた吐蕃の王は唐の僧侶を大歓迎で受け入れる

吐蕃は莫高窟に新たに48の窟を増設する 実は吐蕃が唐から莫高窟を救った

張氏(地元の人)張議ちょうは吐蕃から敦煌を奪い返す 周辺地域も次々と脱却

(10世紀初め)戦国時代 層一族が敦煌を統治 層氏は100年で55の莫高窟の石屈を増設す

(11世紀)騎馬民族(モンゴル帝国軍)に層一族が飲み込まれる マルコポーロが敦煌を訪れる

(15世紀)交通手段は陸路から海上輸送へと変わっていった そしてシルクロードの時代も終わった

1516年 元から明になり莫高窟は造られなくなった その後 石窟は砂に埋もれ人々から忘れられるようになった

(莫高窟の発見)

1900年のある日 王円と言う住職が当時まだ発見されていなかった莫高窟の近くで
線香をたいた(又はタバコを吸っていた) するとその煙が岩壁に吸い込まれていくのを見た 彼は莫高窟の第一発見者となった

壁をはがすと石窟が見つかった さらに奥の壁には密室があり経典や書物が4万点も見つかった

(19世紀) 世界の探検家たちが中央アジアに集まる やがて敦煌に目をつける
イギリス人考古学者のスタインはわずかなお金で敦煌の美術品を買い占める

1908年 古代中国の文字を解読したフランス人ペリオは敦煌の文化財5000展 買い占める

そのころ中国は清朝末期の混乱時にあった

スタインやペリオが持ち出した文化財は 今 大英博物館やパリの図書館に保管されている

北京の国立図書館の物を合わせると4万点の敦煌 文化財がある

(1924年)アメリカ人が薬品を使い莫高窟の壁画を切り 祖国へ取り持ち帰った

(1960年)本格的な工事が開始された しかし文化大革命がおこるとすべて中止となった

(1980年代)再び発掘調査が開始される

(1987年) 万里の長城と北京の故宮ととも莫高窟は中国で初めての世界遺産となる

ただ一般公開されているのは南区のみ 窟の中は電気はなく昼間でも真っ暗 懐中電灯だけではよく見えない

莫高窟 南区 4~14世紀 唐と吐蕃が制作

(莫高窟 北区)

壁画はなく立ち入り禁止となっている 僧侶や絵描きの狭い住処 キリストの十字架も発見された

中は立てないほど狭い 9種類の言語で書かれた7万点の資料が発見された内1400点だけ分析終了

莫高窟 北区

北大仏殿

2500の石像や壁画が収められている

北大仏殿

(正面 九層の寺院)

中には北大仏と言う則天武后(女帝)をモデルにした大仏が奈良の大仏の倍の大きさで建てられた

34.5メートル 奈良の大仏より50年前の695年に造られた 7層目に上ると大仏の顔が拝める(※非公開)

旧暦の4月6日 祭りが開催される その時だけ北大仏の周りを歩いて回れる

莫高窟 正面 九層の寺院
北大仏と言う則天武后(悪魔の女帝)7~8世紀 唐の人物
北大仏と言う則天武后(悪魔の女帝)2

<莫高窟内部>

3窟 元(モンゴル帝国)代に造られた壁画が最も新しい

莫高窟 3窟 (北壁)

16窟 3層楼 16窟 壁の奥に2.8メートルの僧侶の石像 名はこうべんと言う

16窟
16窟 内部

17窟の壁の裏には2.5メートルの石仏があった 壁の裏に隠されていたため800年間も見つけ出すことができなかった

名簿のほか古文書等の書類も多く見つかった(世界最古のソグド語の物も)今は大英博物館にある

戦火を逃れるため 窟は封鎖された(西夏が封鎖した可能性もある)

第17屈 隠れ部屋

25窟 西夏時代 もともとあった壁画を塗りつぶして新たな絵画が描かれた 緑色が多いのが特徴

もともとあった壁画は500~600年前 唐の時代の壁画 様々な色で塗られていた

25窟 壁画

45窟 8世紀 唐の時代の物 釈迦の前世を描いた壁画 チベット商人 丸顔(ふっくら)法華経(ほけきょう)菩薩

ソグド人(イラン系ペルシャ人 商人)も描かれている 7体の美人

45窟 ソグド人 イラン系ペルシャ人 商人

55窟 層氏時代の履 高さ9メートル 緑色をした壁画

55窟 層氏時代の石窟

61窟 緑色の石窟 異民族(ウイグル ホータン)と層一族の壁画

61窟 緑色の石窟 異民族(ウイグル ホータン)と層一族の壁画

98窟 ウイグル ホータン王の壁画

98窟 壁画

148窟 インドから仏舎利を迎える行事が7回行われる その様子が壁画に描かれている

全長14.4メートルの涅槃像 72体の小さな像が釈尊(又はブッタ)の死を惜しむ

148窟 全長14.4メートルの涅槃像 72体の小さな像

156窟 張氏(地元の人) 行列 演奏する人々の壁画 非常に広い窟

158窟 涅槃仏(ねはんぶつ 石像)15メートル 莫高窟で最も大きい けさを折りたたみ枕にしている

壁画にはインドの民 耳や鼻を切り落として悲しみを表している

158窟 涅槃仏(ねはんぶつ 石像)15メートル

159窟 壁画に吐蕃王の肖像画 8世紀半ば

159窟

172窟 唐が最も栄えた時代の壁画

172窟

192窟 2000体の仏 莫高窟を作り出してから100年後 雲岡石窟が作り出された 15メートルの石仏

194窟 9体の仏像 唐美人 その他 美人の像 (※非公開)

194窟 9体の仏像
莫高窟 194窟 唐美人

205窟 9体の仏像 石仏の顔が削り取られる 天井に3匹のウサギ

205窟 9体の仏像

206窟 吐蕃(チベット)が造った窟 イスラム教徒により傷つけられた仏

220窟 唐2代皇帝の壁画

249窟 6世紀 インドの阿修羅 中国の雷神 風神 

6世紀中ごろインド風の造りから中国風に変わった

249窟

257窟 インドストゥーパ

257窟 インドストゥーパ(仏塔)

275窟 シビ王(インド) 本生図 最も古い 5世紀初め多民族が争う時代

西洋やギリシャ風の造り 石像 交差した足 けさをまとわない上半身 逆三角形の背もたれ

高さ3メートルの座った石像

唐(618年)以前の物 630年 唐が北中国と中央アジア全土を統一する(~698年)

275窟 シビ王(インド)

285窟 6世紀  インド ビハーラ窟

285窟

296窟
321窟 極楽浄土 地蔵菩薩

321窟

322窟 7体の仏(石像)がほほ笑む 壁や天井には千体の仏が描かれてる

322窟 7体の仏(石像)がほほ笑む
322窟 壁や天井には千体の仏が描かれてる

323窟 アショカ王(インド)壁画

盗掘の際 四角く切り取られた 今はアメリカの博物館に展示してある

323窟 アショカ王(インド)壁画

328窟 船で仏像を運ぶ人たちの壁画

409窟 西夏王の壁画 李元こう

409窟

419窟 法華経絵図

419窟

427窟 木製  4メートルの像(赤鬼) 千仏の顔には金箔が張られている

427窟
427窟 木製  4メートルの像(赤鬼)

428窟 サッタ太子 6世紀半ば イラン風壁画

465窟 秘密部屋 毘盧遮那仏びるしゃなぶつ 青い仏 チベット仏教壁画

465窟 秘密部屋

469窟 西夏 カラホト城

<目次>
1秦の始皇帝と兵馬俑(西安)
2唐の時代の遺産(西安)
3西安(陝西省)の その他の情報  
4敦煌 莫高窟(甘粛省)
5甘粛省の石窟群
6砂漠の遺跡(ローマの子孫)(甘粛省)    
7甘粛省のチベット文化圏
8蘭州ラーメン(甘粛省) 
9西寧 タール寺と青蔵チベット鉄道(青海省)
10青海湖と文成公主(青海省)
11寧夏回族の観光情報