テスト

16世紀

1526年  パーニーパットの戦い

ローディー朝(ベンガルから北インド)とバーブル軍(のちのムガル帝国)との戦い この戦いでバーブル軍は鉄砲や大砲をうまく使い勝利した。ローディー朝は敗北し滅亡した。

バーブル(ムガル初代スルターン)はローディー朝から奪った財宝を家臣たちと山分けした  

同年 ムガル帝国(第2次ティムール朝)が建国される 創始者 バーブル(トルコ系)はウズベキスタン ティームール出身

バーブルはチンギスハーンの子孫でもあり
 ムガルとはペルシャ語でモンゴルを意味している 

ただ当時 地元の人はムガル帝国の事をヒンドゥースターンと呼んでいた。

パーニーパットの戦い
バーブル
ムガル帝国の支配地域

1539年 ムガル帝国(2代目スルターン)はスール朝に大敗北を期す。

勝利したスール朝はバングラデッシュを含むベンガル(ベンガル王国の領土を除く)から北インドにかけ広い領土を得た

パキスタンの世界遺産ロータス・フォートは この時代 スール朝が築いた要塞

ロータスフォート3
ロータスフォート2

1540年 ムガル帝国とスール朝の間で再び戦いが生じるがまたしてもスール朝が勝利する ムガル軍はガンジス河で多くの戦死者を出した。ムガル帝国は一時衰退した。

1554年 スール朝(ベンガル 北インド)は王の死の後 内乱が勃発し それが原因となり滅亡した。その後 スール朝の領土は再びムガル帝国が統治することとなる

1556年 第二次パーニーパットの戦い(滅亡したスルー朝の武将ヘームーがムガル帝国に起こした内乱)

ムガル帝国2000の兵に対しヘームー軍は10万以上 だが兵力に劣るムガル帝国が勝利した。

武将ヘームーはこの戦闘で殺害された。

1564年 ムガル帝国は それまでイスラム教徒に貸していた重税を廃止した。

1576年 ムガル帝国がベンガル王国を滅ぼす

1587年 ベンガル地方はムガル帝国の一部となる 東ベンガルの密林は切り開かれ開発が進んだ

17世紀

17世紀以降 フランスとイギリスがムガル帝国が統治するインドに次々と拠点を置き始める

1612年 チッタゴンを除くバングラデッシュ
とタウング王朝(ミャンマー)はインドのムガル帝国(イスラム)の支配下に置かれる タウング王朝(ミャンマー)は衰退する一方 モン族とシャン族からなるペグー王朝(ミャンマー)は息を吹き返した(※いずれもミャンマー)

17世紀末 ベンガル地方には港があり さらに大量の銀が産出された そのためベンガル地方はアジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となった また当時 ベンガルはヨーロッパで流行っていた綿織物の産地でもあった

18世紀

18世紀 バングラデッシュにあるコックスバザール海岸(全長120キロの世界一長い海岸)はビルマの統治下にあった 

コックスバザール海岸(全長120キロの世界一長いビーチ)

1717年 ムガル帝国 デカン戦争(内戦)と財政悪化が原因で衰退する そのムガル帝国から独立するような形でベンガル太守が誕生する

ベンガル太守 初代皇帝は元奴隷であった。

首都はバングラデッシュのダッカに置かれた

ベンガル太守

1751年 ベンガルに進出してきたイギリスを嫌ったベンガルはフランスに助けを求めた

そこでベンガル地方ではフランスとベンガルの連合軍とイギリスとの間でプラッシーの戦い(7年戦争)が勃発する 

勝敗の結果はイギリスの勝利 イギリスがベンガルやオリッサの土地を購入することとなった 

1757年 ベンガル地方のプラッシーでイギリスとフランスの章句ミンチ争いからプラッシーの戦い(戦争)が勃発する

ベンガル太守(バングラデッシュ)はフランス側に付きイギリスと7年間 戦ったが結果はイギリスが勝利した。

イギリスがフランスに勝利した事でイギリスのインド植民地化が加速していった。

プラッシーの戦い

1764年 ブクサールの戦い

イギリス対ムガル帝国(インド)ベンガル太守(バングラ)アワド太守の連合国との間でクサールの戦いが勃発する 戦いはイギリスの勝利

この戦いでムガル帝国 連合軍は先のプラッシーの戦いとは比べ物にならないほどの被害を受け さらに大英帝国から多額の賠償金を請求された。

ブクサールの戦い
ブクサールの戦い2

1765年 イギリスの支配下に入ったベンガル地方(バングラ)のベンガル人はイギリスに税を納めることとなる

1769年~1773年 ベンガル大飢饉が発生し4年間で人口の3分の1 1千万人が亡くなった 

1793年 イギリスはベンガル地方(バング)で土地税の徴収を行う さらにイギリス文化(英語やキリスト教)を現地の人に押し付けた

ベンガル地方(バングラ)は完全にイギリスの植民地となった。

19世紀

1818年 コンバウン王朝(ミャンマー)はベンガル湾(バングラ=イギリスが占領)の領土を割譲するようイギリスに要求した。

1820年 ベンガル地方(バングラ)ではイギリス統治に反発するデモが多発する

1822年 コンバウン王朝(ミャンマー)領土割譲の要求にイギリスが応じなかったため ビルマ軍はベンガル(バングラ)に侵攻した。

1857年 イギリス統治に不満を持ったインド市民がインド大反乱(大暴動)を起こす セポイの反乱とも言う 

事の発端は白人が使った弾丸の油に豚や牛の油が使われていたことにあった ヒンドゥー教徒やイスラム教徒にとって受け入れがたい問題となった。

イギリスの傭兵として雇われていたインド人にはヒンドゥー教徒やイスラム教徒がいたため宗教的な対立が暴動に発展した

セポイの反乱
セポイの反乱2

1858年 332年続いたムガル帝国が滅亡した 同時に中央アジアから500年続いたティムール朝も完全崩壊した。

1859年 インド人の反乱から始まった セポイの反乱 はイギリスの勝利で終わった 以降 東インド会社のインド統治からイギリス本国が直接インドの統治を行う事となった

現在のインド パキスタン バングラデッシュ ミャンマーにあたる広大な領土を持つイギリス領インド帝国が建国された

イギリス領インド帝国 国旗
イギリス領インド帝国の支配地域

イギリスはインド人の反発を和らげようと減税を行い さらに鉄道を敷いたりインフラ設備も行った それでもインド人の反イギリス感情は収まらなかった

1877年 ヴィクトリア女王がインド帝国皇帝を務め直接インド統治を行った 新たにイギリス領インド軍も結成された

インドでで英語教育が徹底された

ヴィクトリア女王像

イギリス領バングラデッシュからはイスラム教徒のロヒンギャ族をビルマに強制移住させ

バングラデッシュやミャンマーが独立したのち民族紛争を生むきっけっけとなった。

20世紀

1905年 ベンガル分割令 発令

イギリスは この地方の民族対立をあおって反政府組織(反英運動)の分断化を狙った

結果 ベンガル地方(バングラ)はヒンドゥー教徒(インド)とイスラム教徒との居住地が分断される事となった。

しかし その6年後 民族対立が過熱しすぎたためベンガル分割例は1911年に解かれる

イギリスが行った この政策がきっかけとなり以降 現在に至るまで100年間インドとパキスタンの対立を生む事となる

1921年 のちにインド独立に大きく貢献するガンディーがイギリス政府により政治犯として逮捕される

ガンジー(ガンディーとも言う)

1940年 ラホール大会でムスリムの独立国家建設を提案する パキスタン決意が宣言される ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分裂は決定的となった

1943年 ベンガル地方で 150万~300万の死者を出す大飢饉が発生する

1944年 第二次大戦中 イギリスにより多くのインド人が海外の戦地に送られた。

戦中 インド国内では反英運動が活発に行われた

1946年 直接行動の日が発生 

ベンガル地方のコルカタ(インド)でイスラム教徒がヒンドゥー教徒を襲い死者4700人を出す惨事となった

ビハール州(東インド)では7000人のイスラム教徒が殺害された

一方 ベンガル地方(バングラ)では約1000人のヒンドゥー教徒が殺害された

1947年 ネルーがデリーのラール・キラー(赤い城)においてインドの独立宣言を行った

同年 全インド・ムスリム連盟(イスラム)が東西パキスタン(バングラを含む)を建国した。それに伴いイギリス領インド帝国は解体された。(終戦の日と同じ8月15日はインドの独立記念日)

インドと東西パキスタン独立 

独立後 インド領内のイスラム住民は東西パキスタン(バングラを含む)へ 東西パキスタン領内のヒンドゥー教徒はインド領へと移住し合計1千万人以上の人が引っ越した。

その時 両者の間で衝突が生じ一説には100万人以上の死者を出したとされている。

同年 インドと東西パキスタン(バングラを含む)との間でカシミール地方の領有権を巡って第一次印パ戦争が勃発する

翌年 国連の仲裁によりカシミール地方はインドとパキスタンにより分割された。

1950年 イギリスはインドから完全に撤退した。

1952年 バングラデッシュでウルドゥー語 押し付けに反発するデモ隊に向かって警察が発砲し4名の犠牲者を出した。

1955年 バングラデッシュは東パキスタンとしてインドから独立した 人口では東パキスタン(現バングラデッシュ)の方が多かったが政治は西パキスタンが担っていた

東パキスタン(バングラデッシュ)で面などの交易で得た利益をパキスタン政府は西パキスタンの開発に使っていた

さらに言語の違いもあった 西パキスタンはアラビア語系のウルドゥー語を使用 東パキスタンはヒンドゥー教の影響を受けたベンガル語を使用していた しかし西は東に言語と文字の押し付けを行ったため東パキスタン(バングラデッシュ)の反発を招いた

1958年 パキスタンでクーデターが発生しアユブカーン将軍が大統領となり民主化運動の指導者に対し弾圧を行った それまでの憲法は制限され選挙が廃止となった

1965年 第二次印パ戦争(第2回インド パキスタン戦争) 勃発

前回の戦争同様 カシミール地方の領有権を巡っての争いとなった

一か月後 今回も国連の仲裁により停戦となった。

第2次第 印パ戦争

1969年 東パキスタン(バングラ)で蜂起が発生する アユブカーン政権は崩壊し ヤヤカーン将軍により戒厳令が敷かれた 暴動は武力によって鎮圧された

1970年 東パキスタン(バングラデッシュ)を大型台風ボーラ・サイクロンが襲った 20万~50万の死者を出す 自然災害全般を見ても最も最悪な事態となった

この災害がきっかけとなり東パキスタン(バングラ)は内戦へと突入する

1971年 パキスタンで選挙が開かれ 軍事政権(与党)は大敗を期す 軍事政権はその選挙結果を不服としバングラデッシュで大規模な虐殺を行う その後 バングラデッシュ独立戦争へと発展する

バングラデッシュ独立戦争では反独立派のイスラム武装集団(イスラム過激派)が9か月で300万人のベンガル人を虐殺した 多くのバングラデッシュ人はインドへと亡命した

インドは大量のバングラデッシュ難民を抱え困窮する

そこでインドはバングラデッシュに支援する形で参戦する そこに第3次印パ戦争が勃発した。

結果 インド バングラデッシュ軍が勝利しバングラデッシュがパキスタンからの独立を果たした。

独立後しばらくの間バングラデッシュは一党独裁政権が続く

第3次印パ戦争

1981年 バングラデッシュで軍事クーデターが発生し大統領が殺害される

1988年 ダム建設に伴い多くのバングラデッシュ人は立ち退きを要求され住処を追われた

2万人がビルマへ 4万人がインドへと難民として移住した

1990年 エルシャド政権は民主化運動により退陣に追い込まれる 

その後 複数の政党が誕生し民主的な選挙が行われた

1991年には女性の首相が誕生した

その後 バングラデッシュ民族主義党とバーミ連盟が それぞれ選挙で勝ち政権を取る

現在はアワミ連盟とDNPと言う2大政党制となり 交互に政権を取り合っている

ミャンマーのロヒンギャ(イスラム教徒)がバングラデッシュに逃れ多発している

ロヒンギャは もともとイギリス統治時代にバングラからミャンマーへ強制的に送られた

ベンガル人とロヒンギャは言語や文化の面で似ている
ベンガル人とロヒンギャはよく似ていて区別するのが難しい

ただバングラデッシュに逃れてきたロヒンギャには国籍がない

それが人権問題となっている

<もくじ>
追加情報 バングラデッシュの歴史1
追加情報 バングラデッシュの歴史2
1バングラデッシュの基本情報
2バングラデッシュの年中行事
3バゲルハット
4ダッカ
5ボグラ モハスタン遺跡 
6コックスバザール海岸とモエナモティ遺跡 
7ラジシャヒ、チッタゴン官区〇船の墓場、ディナジプール、オールドクルーズ 
8 追加 チッタゴン