テスト

1975年

 

田部井淳子(日本人の登山家)が女性としては世界で初めてエベレスト登山に成功する

田部井淳子 女性世界初のエベレスト登山に成功する

1975年

 蒋介石が亡くなる その後 台湾総統は次々と入れ替わる

蒋介石の遺体は台湾北部の桃園県大渓鎮に液体付けとなって保存されている。

桃園県大渓鎮

1975年

 

 南ベトナム解放戦線(反米組織ベトコン)に扮した北ベトナム軍は解放戦線の旗を掲げ南ベトナム政府軍(アメリカの傀儡国家)に総攻撃を加える が南ベトナム政府軍は戦いを放棄した

そのため 北ベトナムは戦わずして南ベトナムを占領した

南ベトナム政府の関係者は その後 共産党思想の教育をうける事となるが 政治犯として捕まることはなかった

南ベトナム解放戦線の国旗
サイゴン陥落

1975年(サイゴン陥落と同じ年)

  2年の歳月をかけ建てられたホー・チ・ミン廟(ハノイ)にはエバーミング処理された ホーチミンの遺体が安置される事となった

ホーチミン廟
ホーチミン(ベトナム)ハノイ

1976年

 

 毛沢東は82歳で死去 それに伴い 中国国内の混乱も ようやく終わった また毛沢東が亡くなったことでソ連との関係も改善された 

北京 天安門広場の毛沢東主席記念堂(遺体が安置されている)北京

毛沢東主席記念堂 20世紀 中国共産党

1976年

 

 南北統一が成し遂げられベトナム社会主義共和国が出来上がる 南ベトナムの首都だった サイゴンはホーチミンと改名される

ホーチミン

1976年

   

北ベトナム(共産党)主導の元 国家作りが行われることとなる

それまで南ベトナムで行われていた資本主義経済は廃止となり資本家の資金は国に没収され企業はすべて国有化された

国に財産を没収されるのを嫌った 南ベトナムの資本家や商人の多くは難民となってベトナムから逃げていった。香港 シンガポール 日本など資本経済を取っている国へと逃げていった。

南ベトナムからのボートピープル(難民)

1977年

 

日本国内や海外で北朝鮮工作員(スパイ)の活動が活発になり日本人を北朝鮮へ連れ去る事件(日本人拉致問題)が多発する。

1977年

  

ダッカ日航機ハイジャック事件が起こる 日本赤軍(日本のテロ組織)が起こした事件

身代金600万ドル(16億5千万円)と赤軍メンバーの釈放と引き換えに人質 約150人を全員 解放した

ハイジャック犯と釈放犯は大金を手にしアルジェリアへ逃亡した。

日本は海外にテロ犯を野放しにしたと非難を浴びた。

日本政府はテロ犯の要求をすべて飲むという今では考えられない失態を犯した。

ダッカ日航機ハイジャック事件

1977年

 鄧小平が政権の座に復活した 改革開放路線(合理的な経済政策)を取った中国は飛躍的に発展する だが鄧小平はトップに立たず裏番長を務めることとなる

翌年 人民公社は解体され  生産請負制を導入する 各自で作った農作物は自由に売ることが出来るようになった

それにより農民の意欲向上が図られ収穫量は飛躍的に増えた

鄧小平

1978年

 

 秘境に作られた中国とパキスタンを結ぶ7000キロの道 カラコルムハイウェイが完成する 

カラコルムハイウェイ2

カラコルムハイウェイは中国とパキスタンが共同で20年かけて作った道 建設中に中国人80人 パキスタン人800人が亡くなっている 

カラコルムハイウェイ 慰霊碑

1978年

      

 隣国カンボジアで新たに誕生したポルポト政権はベトナム領内を攻撃する そしてベトナムとの国交を断絶した

当時ベトナムはソ連との関係を強化していた 一方 同じ共産国でも中国はソ連と対立関係にあった そのため中国は反ベトナム(=反ソ連)思想のポルポトの支援に回った 実は中国だけでなくベトナム(共産党国家)と対立関係にあったタイやアメリカ さらに日本(親米政権=自民党)もポルポトポ(残虐な独裁者)を指示していた

ポルポト

1978年

  

ポルポトはカンボジア国内だけでなくベトナムのバクチュン村(カンボジア国境)でも大虐殺を行う

実はベトナムへ助けを求め逃げ込むカンボジア人も少なからずいた

ベトナムの民間人3157人が無抵抗のままポルポト軍の虐殺を受けた

この事件を切っ掛けにカンボジア ベトナム戦争へと発展する

カンボジア ベトナム戦争

カンボジア ベトナム戦争 勃発

 ベトナム軍 10万がカンボジアへ向け総攻撃を開始する

その時 ベトナム軍が 初めてカンボジアで行われていた虐殺の実態を目にする 地面がすべて人骨で覆われ 死体が腐ったにおいで覆われてた

カンボジア ポルポト政権はわずか2週間で崩壊する その後 ポルポトはタイ国境近くのカンボジア北部のジャングルの中へ逃げ込む ポルポトは木材とルビーをタイへ密輸し財力を蓄えていた ベトナムを嫌っていたタイ政府はポルポトを陰で支援していた

ポルポト大虐殺の後 大量の人骨が発見された

1979年

 

 イラン革命が原因で第2次オイルショックが起こる

日本は需要を抑える(節約を行う)ことで この危機を乗り越えた

イラン革命が発端となり起こった第2次オイルショック

1979年

 

 朴正煕(パクチョンヒ)は側近の中央情報部長により暗殺される

韓国では独裁者の死により規制が説かれソウルの春(民主革命)が到来した

しかし同年 またしても軍事クーデターが発生し また軍事政権に逆戻りした

パクチョンヒ暗殺

1979年

1979年~1980年

①厦門(福建省) ②仙頭 ③珠海 ④深セン(広東省)

 4つの経済特区を設外国人企業を誘致した

中国 経済特区

1979年中国で人口抑制のために 漢民族に対し一人っ子政策を実行する※少数民族に対しては規制がない また漢民族も地方によっては賄賂や罰金を払い2人目まで生むところもある

罰金の値段は場所によって大きな開きがある(一人っ子政策は2015年に終了となる)

一人っ子政策関連のポスター

1979年

   

 ベトナム軍がカンボジア プノンペンを陥落させる
ポルポト政権下で幽閉されていたシアヌーク(元カンボジア国王)は再び中国 北京へと亡命した

同年 親ベトナム ヘンサムリン政権(傀儡かいらい政権)からなるカンプチア人民共和国が設立される

カンプチア人民共和国の国旗
 

ヘンサムリン  

 
同年 ポルポトと同盟関係にあった中国はカンボジアに侵攻したベトナムに報復攻撃を仕掛ける 中越戦争が勃発した。

ベトナム軍は実戦経験が豊富で しかもアメリカ軍がベトナム戦争時 残していった最新兵器を使用していた

そのため中国人民解放軍20万がベトナムの領土へ進行するが返り討ちに会い大量の戦死者を出したまま撤退する 中国軍の死者2万人に対してベトナム軍は7千人であった

中越戦争

1979年 

 

パラオで独自の憲法と議会が造られパラオ独立を目指すも

憲法で国内に核兵器の持ち込みを禁止したためアメリカの反発を買いアメリカの裁判所がパラオの独立を認めなかった

パラオに核兵器を持ち込みたいアメリカ

1980年 

 

光州事件が起こる 光州で学生らを中心とした民主化デモが起こる それを軍事政権が鎮圧し死者154人を出す大惨事となった

光州事件

1980年


1980年 中正記念堂(台湾 台北) 蒋介石が亡くなったあと追悼の意を込めて建てられた

中正記念堂 正門牌楼2
中正記念堂 衛兵の交代式

1980年代

中国の人口が10億人を突破する

1980年

 

1980年 反マルコス運動をしていたアキノは身の危険を感じアメリカに亡命する(フィリピン)

アキノ


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<目次>
フィリピン独立 インドシナ戦争 中国国共内戦(1945~1949)

朝鮮戦争 水爆実験 ベトナム戦争(1950~1959)

ベトナム戦争泥沼化 米軍北爆開始 韓国軍事政権(1960~1965)

沖縄返還 日中国交正常化 第1次オイルショック(1966~1973)

ベトナム南北統一 カンボジアベトナム戦争 中越戦争(1974~1980)

北朝鮮テロ事件多発 台湾民主政権誕生 天安門事件(1981~1990)

韓国モンゴル民主化 パラオ独立 香港中国返還(1991~2005)

尖閣竹島領土問題 東日本大震災 新型コロナ蔓延(2006~2020)