テスト

1959年

  

1959年チベット動乱発生 チベットで中国(共産党)軍とチベット軍の衝突が発生する 

中国人民解放軍はチベット人の大虐殺を行った

 
ダライラマ14世をはじめ2万人のラマ僧ほか10万のチベット人がインドやネパールへ亡命した 

チベット動乱

1959年

1959年 中国 人民大会堂(北京) 

人民大会堂 内部2
人民大会堂

1959年

 蒋介石は台湾に戒厳令を引き 蒋介石は大陸から国民党軍を呼び寄せ軍がデモの鎮圧にあたった

その際 台湾人の大量に無差別虐殺が行われた

少なくとも2万8千人が殺された 

蒋介石の戒厳令は1987年までの38年間も続いた

1959年 台湾

1960年

 

国会議事堂前に安保反対を訴える民主のデモが発生

その大規模な反米 反政府デモは安保騒動と呼ばれた

国民の大反対を受けたにもかかわらず日本とアメリカの間で安全保障条約が結ばれた

それを切っ掛けに日本では政治熱が冷め政治に無関心になる人が増える のちに経済一流 政治は3流と言われる時代がやって来る

安保騒動

1960年4月19日と1961年

韓国では学生デモを発端として政権は崩壊し(四月革命)独裁政治を行っていた韓国初代独裁者 李承晩(リスンマン)はハワイへ亡命した。

リスンマン

1961年 韓国では軍事クーデターが発生し政権交代が起こる

朴正煕(パクチョンヒ)は大統領選挙を廃止し15年近く韓国の2代目独裁者を務めた
韓国は軍事政権下で日本と良好関係にあった

パクチョンヒは軍事政権下で国民を弾圧しながらも韓国経済だけは発展させた

パクチョンヒ

1960年

 

  南ベトナムに反米組織 民族解放戦線が立ち上がる アメリカは その反政府組織をベトコンと言う差別用語で呼んだ 

反政府軍(解放戦線)は地下にいくつかのトンネルを掘り その中で暮らしながらゲリラ戦をしながら戦った 地雷を仕掛け最新式のアメリカの戦車も爆破した

クチトンネル 戦車
クチトンネル

米軍と南ベトナム政府軍はベトコン(反政府軍)に連戦連敗を重ねる

それでもアメリカは次々と兵を派遣し最終的には50万の米軍兵がベトナムに集まった

アメリカが軍事介入しベトナム戦争は泥沼化する 

昼間は農作業を行うベトナム人 しかし夜はベトコンとなって米軍施設を襲撃した

米軍は敵のベトコンと敵ではない農民との区別がつかなくなり 無差別殺人を行うようになる

ベトナム戦争 泥沼化

1961年

1961年 それまでは中華民国(現在は台湾)が拒否権を発動し困難であったが モンゴルは やっと国連加盟を果たした。

1961年~1971年

  

 ゲリラ戦を嫌ったアメリカは枯葉剤(化学兵器)を空から放った その結果 樹木が枯れた だけでなく人体にも影響を及ぼし奇形児も多く生まれた

枯葉剤の中には人体に害を及ぼすダイオキシンが入っていた

ベトナム人だけでなくアメリカ兵にも大きな被害が出た

枯葉剤を浴びたアメリカ兵に癌が多く発生した 

枯葉剤の被害者となった ベトちゃんドクちゃん 日本で分離手術を行った
米軍 化学兵器(枯葉剤)散布

1962年

   

 

イギリス人が勝手に引いたインドとチベットの国境線が原因となり 中印国境紛争(インドVS中国)が勃発する。戦争の結果は中国が勝利し

中国がインドとパキスタンの間のカシミール地方の一部を実効支配する

中印国境紛争

1963年

1963年 黒部ダム(富山県)  黒部渓谷トロッコ

紅葉黒部渓谷とんぼ
黒部ダム

1964年

東京オリンピック開催 

1回目の東京オリンピック開催
東京オリンピック開催(1回目)

日本の高速鉄道 東海道新幹線が開通

東海道新幹線 開通

1964年

 

文化大革命(中国内乱)の発生

国家主席の座を失った毛沢東が紅衛兵(学生)らを使い内乱を起こす ギャング集団と化した紅衛兵が街で暴れまくった

チベットにおいては実に99%の寺院は紅衛兵によって破壊された

紅衛兵同士の衝突もあり そこで殺人も行われたが警察は一切 手を出すことが出来なかった

文化大革命で殺害された遺体が当時イギリス領であった香港へ次々と流れ着いた

3年後 毛沢東が国家主席の座を取り戻したことにより文化大革命(内乱)は終わった

文化大革命では50万の人が処刑された

最高権威の座を取り戻した毛沢東にとって紅衛兵は必要なくなる そのため 1000万人の紅衛兵が農村へと追いやられた 

紅衛兵
紅衛兵2

1964年

 

 トンキン湾事件が起こる  

南ベトナムで行われていたベトナム戦争(アメリカVSベトナム)の戦火は北ベトナムまで広がることとなる。

切っ掛けはアメリカと北ベトナム(ホーチミン)双方の領海線の認識の違いが生んだ事件だった

1回目 北ベトナム(魚雷艇)が領海侵犯をしたアメリカ(駆逐艦)に攻撃を加えた 

2回目 アメリカは2度目の攻撃があったと 嘘の報告をする (実は米軍が北ベトナムを攻撃したいが為に作った でっちあげの事件)

トンキン湾事件(アメリカの でっちあげ事件)

1964年

   

アメリカは北ベトナムを攻撃する材料が十分にそろったとし北爆(北ベトナム空襲)を行う  8万トンの爆弾(原爆4個分)の空爆を行う 

 タイのウドンタニーや沖縄や横須賀(日本)の米軍基地からも戦闘機が飛び立ち爆撃に加わった

B52戦闘機はジョットエンジンを8基積み さらに重さ225キロの爆弾を一度に108発運ぶことが出来た 

米軍は北爆で東京大空襲の50倍の爆弾を落とした

第2次世界大戦の4倍の量の爆弾がベトナム戦争で使われた

北爆2
北爆

1964年

     

南ベトナム(反米組織=通称ベトコン)は北ベトナム(ホーチミン)から支援を受ける

北ベトナムが同じ共産党国家 ソ連や中国から受け取った大量の武器をラオス カンボジアを経由し南ベトナム(ベトコン)へと送った

アメリカはその輸送路をホーチミンルートと呼んだ 最終的にホーチミンルートは4000キロに達した

アメリカは そのホーチミンルートを断つためと米軍はラオス共産党を一掃するためにラオスやカンボジアにまで空爆を加えるようになる

ホーチミンルート

1964年

 

 ベトナム戦争時アメリカはラオスに200万~300万トンの爆弾を投下した ラオスの人口1人あたり1トンの爆弾を落とした計算になる

 ひと月1.7万~2.7万回の出撃し 1日800回もの空爆が行われた この空爆により70万人以上の難民が発生し35万人の人が亡くなった 

また米軍は北爆の際 戦闘機が爆弾を積んだまま着地するのは非常に危険であるため

余った爆弾はラオスの落とされた。

やわらかい土に落ちた爆弾が 今も そのまま爆発しずに残っている 不発弾が今でも土の中に眠っている

4万2000人以上が不発弾でなくなっている

不発弾
ラオス不発弾処理プロジェクト ビジター センター

1965年 

 

日本と韓国の間で国交が結ばれる

日韓国交正常化

1965年

1965年 マルコス大統領は金で選挙も政治も動かすようになる

マルコスの独裁政治は25年間続いた 反乱の兆しがあると マルコスは すぐ戒厳令が発令させた すると直ちに軍が出動し鎮圧にあたった

またマルコスの妻イメルダ夫人は高価な靴集めが趣味 今ではイメルダの靴コレクションは観光名所になっている

マルコスとイメルダ婦人
マルコス(フィリピン)2016年埋葬


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<目次>
フィリピン独立 インドシナ戦争 中国国共内戦(1945~1949)

朝鮮戦争 水爆実験 ベトナム戦争(1950~1959)

ベトナム戦争泥沼化 米軍北爆開始 韓国軍事政権(1960~1965)

沖縄返還 日中国交正常化 第1次オイルショック(1966~1973)

ベトナム南北統一 カンボジアベトナム戦争 中越戦争(1974~1980)

北朝鮮テロ事件多発 台湾民主政権誕生 天安門事件(1981~1990)

韓国モンゴル民主化 パラオ独立 香港中国返還(1991~2005)

尖閣竹島領土問題 東日本大震災 新型コロナ蔓延(2006~2020)