テスト

1260年

     

モンゴル軍はキリスト諸国連合軍を引き連れ シリア パレスチナで エジプトを拠点に置くマムルーク朝と戦う(アイン・ジャールートの戦い)が  マムルークに敗北する

アイン・ジャールートの戦い

1260年

多くの人の支持を得たクビライカーンが第5代 モンゴル皇帝に選ばれる 同じくクビライの弟 アリクブケも5代目に就任する モンゴル帝国は分裂しモンゴル帝国帝位継承戦争(内戦)に発展する 戦乱は4年間続いた。

以後 モンゴル帝国は①元朝②キプチャク国③イルハン朝④チャガタイハンの4か国に分裂する事となる

モンゴル帝国 分割地図

1264年

5代目皇帝のアリクブケ(弟)が同じく5代目皇帝クビライに降伏する

1264年

   

元(モンゴル)による樺太遠征が行われる アイヌ人がモンゴル帝国と戦った

樺太の場所
アイヌ人

1267年

  
 

モンゴル帝国 クビライは26年かけて大都(現 北京)の町を作り上げる 

北京の北海公園を起点に町作りが行われた。

北海公園(1177年 金朝建築)

北京の伝統民家 四合院(フートン)や 北京の故宮も そのころ建てられた

四合院

そのころイタリア人のマルコポーロも大都を訪れ元の皇帝 クビライと面会している

マルコポーロ(イタリア人)

またマルコポーロが書いた東方見聞録はのちの時代に活躍するコロンブスが愛読していた。

13世紀末 中国の京劇(演劇)は元(モンゴル帝国)の時代から始まったと言われている

北京 京劇2

北京の街を築いたモンゴル帝国はチベット仏教他様々な宗教を取り入れていたが 中でもイスラム教徒は帝国の財政を支えていた

牛街清真寺(996年 北京 イスラムモスク)

1268年

 

九州(日本)の太宰府にモンゴル帝国の使者がやって来る が 鎌倉幕府はモンゴルからの使者を追い返した。

九州 太宰府

1271年

 

 クビライはモンゴル帝国を東アジア部分の支配地域を中国風の呼び方の元と決めた

元の支配地域

1271年以降  刀削面(山西省)  元のころモンゴル軍に包丁を奪われた一般人が鉄板を使って作ったのが刀削面の始まり また山西省は面のふるさとと言われ300種類以上の麺料理がある

山西省 刀削麺

1274年

    

 蒙古(元)と高麗(朝鮮)の連合軍 2万6千人と900層の船が日本に攻めてきた 

圧倒的な軍事力を見せつけられ モンゴル軍の圧勝かと思われたが しかし台風が海上を襲い

モンゴル軍は退散 そのときモンゴル軍兵士 約3000人あまりが海中に沈み 亡くなった

文永の役 1回目の蒙古襲来

鎌倉幕府は2回目の蒙古襲来に備え福岡県に元寇防塁と言う防護壁が築かれた 元寇防塁は今も残っている

福岡県には蒙古襲来の時に備えて築かれた防波堤が今でも残っている。

元寇防塁 蒙古襲来の時

1274年

 

モンゴル 南宋戦争 崖山の戦い が始まる 戦いは5年間続く

崖山の戦い
崖山の戦い  江门市新会区宋元崖门海战文化旅游区

南宋は福建省の泉州を拠点にアジアの海を制圧していた 主にインド産の胡椒 香木 乳香などを扱っていた

泉州古船陳列館には13世紀 南宋が築いた木造大型船のが展示されている

泉州古船陳列館

1275年 

 

再びモンゴル帝国(元)からの使者が来る 鎌倉幕府は 使者たちの話を聞くまでもなく ただちに御家人(武士)を呼び出しモンゴルからの使者を皆殺しにした

1277年

  

元(モンゴル)はパガン朝(ビルマ=ミャンマー)への攻撃を始める 初戦の戦いはモンゴルが勝利した 戦いは その後 10年も続く

バガン遺跡
モンゴル(元)パガン戦争

1279年

   

 元と南宋の間で行われていた 崖山の戦い の決着が着く 

元(モンゴル軍)はついに新兵器 投石機を手に入れる そして南宋の都 杭州は ついにモンゴル軍の手に落ちる  そして 南宋の滅亡につながった

投石機

戦争に敗れ難民となった南宋の人々がフィリピンのマニラでトンド王国(ルソン国、呂宋国)を建国した。

トンド国は東南アジアやインド 中国の中継貿易で栄えた海洋国家になる

元の時代 宋(中国)の焼き物にペルシャ(中東)の青い原料などを使った景徳鎮(江西省)が完成する 景徳鎮の焼き物は遠くヨーロッパにまで運ばれた

景徳鎮の陶磁器

1281年 

 


モンゴル軍 14万の兵が日本の博多湾に攻めてきた。

しかし またしても台風が北九州を襲った そのときの蒙古軍の死者は10万とも言われている 

台風のおかげで鎌倉幕府は命拾いしたと思いがちだが 実際は蒙古(モンゴル)軍は多民族からなる軍隊で内部で争いが絶えなかった 

弘安の役 2回目の蒙古襲来

またモンゴル帝国との戦いで戦費を使いすぎた鎌倉幕府は財政が圧迫 武士を はじめ多くの人の生活が苦しくなった

武士たちは牛や馬を出し命まで懸けて戦ったのに報酬がないと幕府に不満を訴えた 

この戦いが鎌倉幕府の崩壊を速めたとも言われている。

1282年

 

元(モンゴル)は海からチャンパ王国(ベトナム中部)に攻撃を仕掛けるが失敗する

続いて元は大越(ベトナム北部)の領土を通過しチャンパ(ベトナム中部)に攻撃を仕掛けた しかし大越軍の攻撃に会いまたしても失敗に終わる

1283年

  

第二次元越戦争(ベトナム対モンゴル)ベトナムの勝利 これで元(モンゴル)はベトナムに連敗を期す

第二次元越戦争

1283年

 

 ミャンマー北部のバモーで元(モンゴル)とパガン朝(ビルマ 現ミャンマー)の2度目の衝突が起こる 又してもモンゴルが勝利する

1283年

   

1283年 アンコール王朝(タイ ラオス カンボジア)はモンゴル帝国の侵略をうけるが その後 元(モンゴル)の属国になることで存続を保った

アンコールワット(カンボジア)

1285年

  

樺太で元(モンゴル)の2度目のアイヌ攻撃が3年続けて行われた。アイヌ人は樺太から追い出された。

1287年

 

第三次元越戦争(ベトナム対モンゴル)

モンゴル軍 50万の兵で押し寄せた

大越は500本の杭に400隻の船をひっかけた そして 大越は今回も元(モンゴル軍)撃退し撤退させる

ベトナム3連勝 一方 元(モンゴル)は3連敗を期す

第三次元越戦争

元(モンゴル)の軍隊が大越に向け総攻撃を仕掛ける 一時ハノイを占領されるが 大越はゲリラ戦に展開する 
元(モンゴル)軍は森林地帯での不慣れな戦いと さらに疫病が蔓延し 撤退した

ミトー ジャングルクルーズ 

1288年

 

元(モンゴル)は白藤江の戦いで陳朝ベトナムを攻めるが失敗する モンゴルはベトナムに4連敗を期す

それまで仲が悪く何度も軍事衝突を起こしてきた北ベトナムの大越とベトナム中央のチャンパ王国は共通の敵 
元(モンゴル)を協力し撃退したことにより大越とチャンパの両国の関係は その後と良好となる

またマルコポーロが書き残して記録にチャンパ王国の事が書かれていた

白藤江の戦い

1292年

  

モンゴル軍がパキスタン ペシャワール侵攻に失敗する 4000人のモンゴル兵が捕虜となりイスラム教徒に改宗させられた。

またモンゴル軍は北インドにも2度ほど大軍を引き連れ進行しているが占領するまでには至らなかった。

ペシャワール

1292年

  

元(モンゴル)はインドネシア ジャワ島へ進行するが失敗に終わる

インドネシア ジャワ島

1294年

モンゴル帝国のクビライカーンが80歳で亡くなる 同年 元の皇帝にクビライの孫 テムルが6代目に就任した

6代 テムル

1298年

  

 元(モンゴル)パガン朝との3度目の戦いパガンの戦いが起こる パガン朝はモンゴルに占領され滅亡し270年の歴史に幕を下ろした。

元はビルマを占領するも現地シャム族(タイ族)の抵抗にあいモンゴルのビルマの統治はうまくいかなかった

タイ族
シャム族

1300年

 

インド デリーはモンゴル侵攻の結果 多くの難民が押し寄せていた そんな中 モンゴルが久々にデリー(インド)に攻撃を加えた。


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<目次>
唐と吐蕃の時代①朝鮮初の統一王朝 唐中央アジア併合(7世紀)

唐と吐蕃の時代②イスラムの台頭 安史の乱 タラスの戦い(8世紀と9世紀)

日本は初めて朝鮮は2度目の統一王朝 誕生(10~12世紀)

モンゴル帝国時代①中東インド ヨーロッパ遠征(13世紀 前期)

モンゴル帝国時代②中国中東ロシア朝鮮 占領(13世紀 中期)

モンゴル帝国時代③アジア エジプト遠征(13世紀 後期)