テスト

13世紀(1201年~1300年)

1201年

1201年 稲葉山城 岐阜城

稲葉山城 (岐阜城 金華山)

岐阜城
 

1206年

  

チンギスが初めて小さな部族を束ねた指導者だった

モンゴルの草原で生まれたテムジンが仲間と協力しモンゴル帝国を建国した テムジンは皇帝(大カーン)に昇進しチンギスハーンと改名する

チンギスハーンはモンゴル高原の多くの部族をまとめモンゴル統一を果たす

チベットを支配下に置いたモンゴル帝国はチベット仏教の影響を受け のちにチベット仏教を信仰するようになる 以降 チベットとモンゴルは今日に至るまでの長い期間 友好関係が続く

またイスラム教徒は帝国の財政を支えていた

交河古城 元(モンゴル)の頃に消滅

モンゴル帝国時代 全人類の半数がモンゴルの支配下にあった

モンゴル帝国の国旗
チンギスハーン
チンギス ハーン像テーマパーク 
モンゴル帝国の支配地図

1211年

 

1211年 天山ウイグル王国はモンゴル帝国に滅ぼされる 以降 ウイグルはイスラム化が進む

天山ウイグル王国

1215年

 

1215年 モンゴル帝国は金の都を攻め落とす 金王朝の皇帝は内紛のさなか殺害された

金は大部分の領土を失うも河南省 開封へ逃れ存続した

1215年(同年) 中国 甘粛省の大仏寺でモンゴル帝国5代目皇帝のフビライハンが生まれる

1218年

     

ウイグルから中央アジアに存在した西遼 モンゴル帝国によって滅ぼされる

1218年

   

 金朝の黒契丹が朝鮮に侵攻する それを高麗とモンゴル帝国の連合軍が撃退する

1220年

   

 チンギス率いるモンゴル帝国はホラムズ王国(中央アジア イランイラク)を攻める

ホラムズ王国の支配地域

そしてオトラル(カザフスタン)を攻め落とす 

オトラル 遺跡

その後 首都サマルカンド(ウズベキスタン)も陥落しホラムズの領土はモンゴル帝国の支配下に置かれる

ウズベキスタン サマルカンド

1220年

  

1220年~1223年 高麗はモンゴル帝国の属国となる

高麗の一族はモンゴル帝国 元の大ハーンン所へ嫁ぎ 親戚関係を築く

1221年 

天皇の朝廷軍との戦闘に勝利した鎌倉幕府(日本の中央政権)は京都を併合した。

京都を追われた天皇と皇族は地方へと追いやられた。

1221年

  

1221年から1327年までの7年間 モンゴル帝国はインドやパキスタンに侵攻し何度か攻撃を加える

モンゴル インド侵攻

パキスタンやパンジャーブ地方(中国の隣)は数十年に渡りモンゴル帝国の支配下に入った

デリースルタン朝もモンゴル軍の攻撃を何度も受けたが撃退した。

デリースルタン朝(イスラム)とヴィジャヤナガル王国(ヒンドゥー)の場所

1221年

 

モンゴル軍がグルジア(現ジョージア)へ侵攻した。

ジョージアワイン2

1221年

    

モンゴル帝国とホラズムシャー朝(ペルシャ)アフガニスタン パルヴァーンで衝突 パルワーンの戦い チンギスハーン時代のモンゴル軍が唯一敗れた戦い

パルヴァーン州

同じ年 モンゴル帝国とホラズムシャー朝(ペルシャ)がパキスタンで衝突する インダス河畔の戦い 戦いはモンゴル軍が勝利した。

インダス河畔の戦い

1223年

  

モンゴル軍 ヴォルガ・ブルガール侵攻(現 ロシア タタールスタン共和国)計4回行われた戦闘はモンゴル軍の圧勝だった

ロシア タタールスタン共和国 の場所
タタールスタン共和国

1223年

  

モンゴル軍がアルメニアに侵攻した。

アルメニアの場所

1223年

   

ウクライナでキエフ公国(ロシア)など4つの連合国軍とモンゴル帝国軍が衝突した。カルカ河畔の戦いが起こる。兵力(人数)で勝った連合軍だが結束力にかけ大敗 モンゴル軍が圧勝した

カルカ河畔の戦いを描いた絵

ウクライナ連合軍は50万の犠牲者を出し人口は半分に激減した。

この敗北を機にスラブ人は分断され ロシア人 ウクライナ人 ベラルーシ人の3つの民族に分裂した。

スラブ人2

1225年

   

高麗がモンゴル帝国からの使者を殺害する事件が発生する しかし その時 チンギスハーンは遠征中で高麗はモンゴル帝国の報復を免れた

1225年

ベトナム北部の大越国では9代 217年 続いた李朝が崩壊 新たに陳朝の支配下に入った

1227年

 

 モンゴル帝国は西夏(中国北部)を攻める さらに西夏は大地震に見舞われ滅亡する

西夏王陵2

1227年

 チンギスはーが亡くなる チンギスハーンの残虐な話は 大げさに造られた話が多いとされている

またチンギスハーンの死後 10万の兵のうち8割が4男のトルイが相続した。

一方2代目皇帝は3男のオゴデイが継いだ

2代目 オゴデイ ハン
チンギスハーンの葬儀の様子

1230年

  

第二次対金戦争 モンゴル軍は河南省 開封へ逃れていた金王朝に再び攻撃を仕掛ける

1231年

  

ホラズムシャー朝(ペルシャ)はモンゴル帝国によって滅ぼされる。

1231年から1273年

(日本の蒙古襲来より約50年前)

42年間で6回の攻撃を受ける

   

2代目 オゴデイは高麗に(モンゴル使者殺害事件)の報復攻撃をするとの通達を出す。そしてモンゴルの朝鮮侵攻が始まった。

まもなく高麗の首都ケソン(現 北朝鮮)が陥落した。

モンゴルは高麗に対し1万枚の毛皮、2万頭の馬、100万人分の軍服および大量の奴隷を要求した。

モンゴル 対 高麗
モンゴル高麗 戦争

1232年 

 

そのころ日本では宋(中国南部)から宋銭と言われる通貨が多く流通していた

宋銭

1232年

チンギスハーンの4男 トルイが金との戦いで命を落とす。

1232年

   

高麗(朝鮮)ではモンゴル帝国の官僚ら72人全員殺害される

高麗は次のモンゴル侵攻に備え江華島(カンファド=ソウル郊外)に要塞を構え 海への戦いに誘い込む作戦に出た。まもなくモンゴルは2度目の朝鮮侵攻を行い北朝鮮を超え韓国まで攻めたが失敗に終わり撤退した。

江華島の場所
江華島

1234年

 

鎌倉大仏 建立 5年の歳月をかけ建てられた 高さ11メートル

鎌倉大仏

1234年

  

河南省 開封へ逃れていた金王朝が 2代目皇帝(チンギスハーンの息子)オゴタイ率いるモンゴル帝国によって滅ぼされる


つづきを見る 

<目次>
唐と吐蕃の時代①朝鮮初の統一王朝 唐中央アジア併合(7世紀)

唐と吐蕃の時代②イスラムの台頭 安史の乱 タラスの戦い(8世紀と9世紀)

日本は初めて朝鮮は2度目の統一王朝 誕生(10~12世紀)

モンゴル帝国時代①中東インド ヨーロッパ遠征(13世紀 前期)

モンゴル帝国時代②中国中東ロシア朝鮮 占領(13世紀 中期)

モンゴル帝国時代③アジア エジプト遠征(13世紀 後期)