テスト

<基本情報>
南アジアと接する国 

昔から民族の十字路と言われさまざまな人種が共存してきた

周辺国 6か国と国境を接している 

※アフガニスタンでは子供が安全のため爆弾の仕組みを習う※

アフガニスタンと周辺国
様々な人種が行きかう通り
民族の十字路

<歴史>

紀元前4~5世紀 ギリシャ人が立ち上げたバクトリア王国が滅びたる 

アフガニスタン北部で見つかったアクサスの秘宝は そのとき有力者の墓にひそかに埋められた物

1877年 アフガニスタン北部のオクサス川で見つかったため そう呼ばれている

黄金の腕輪 4頭の馬にひかれた黄金のミニチュア 遊牧民族スキタイの衣装を羽織っている などなど 

黄金の腕輪

それらはアケメネス朝ペルシャの金属加工の粋を集めた品々

今はイギリスの大英博物館に展示されている それらの秘宝は移動の際 盗賊に奪われ危うく溶かされるところであった

紀元前2世紀  匈奴(きょうど=モンゴル系遊牧民)に敗れ逃れてきた

月氏(げっし=同じくモンゴル系遊牧民)がアフガニスタンの西部に たどり着き大月氏国を立ち上げる

当時 その地域ではペルシャとギリシャにインドが入り乱れ勢力争いを行っていた

1世紀 45年 2000年間続いた大月氏王国はイラン系遊牧民のクシャン人(ゾロアスター教徒)によって滅ぼされた

クシャナー朝 又はクシャン王国は今のパキスタン ペシャワールに都を置き中央アジア一帯と北インドまで支配する

クシャナー王国(クシャン朝)は2世紀のカニシカ王(出身地不明)のころ最も繁栄する

昔 シルクロードの通り道であった

約2300年前 マケドニア(ギリシャ)のアレクサンダー大王の支配も受けた

ギリシャ人 アレク

この地域は西からはイスラム勢力 北からはモンゴル帝国  南からはインドの王朝

の占領ののち1709年 アフガニスタンとして最初の独立を迎える

第一次アフガン戦争(1838年 – 1842年 アフガンとイギリスとの戦争 )

アフガン軍が勝利するが しかしその後 イギリス インド軍がカブールを制圧 占領が続く中 

アフガン国民はイギリス統治に反感を持つようになる

1841年 イギリス インド軍はアフガニスタンから撤退を始める しかし翌年 全滅するほどの打撃を受ける

1853~1856 クリミア戦争(イギリス フランス トルコ軍 対ロシア帝国) イギリスフランス軍の勝利

1877~1878年 ロシア帝国とオスマントルコの戦争 露土(ろと)戦争 (ロシアの勝利)

今度は帝政ロシアがアフガニスタンに侵略を始める

第2次アフガン戦争 (1878年 – 1881年)アフガニスタン対 帝政ロシアの戦争

イギリスはアフガンを援助することでこの地方の影響力を強め のちの植民地化につながる

戦争はアフガン軍の勝利 イギリスはロシアの南下を阻止した

イギリス領インド(現パキスタン)とロシアに挟まれた位置に存在したアフガニスタン

1919年 イギリスがアフガンに侵攻 第3次アフガン戦争が勃発する

結果 イギリスが勝利しアフガニスタンはイギリスの植民地となる

イギリスはアフガンに国境線を引く パシトゥン人ほか同じ民族が国境線を境に分断される

1926年 イギリスからの植民地支配から脱却しアフガニスタン王国として再三の独立を果たす

ダルラマン宮殿(アフガニスタン王国の王宮)
ダルラマン宮殿  アフガニスタン王国の王宮

時の国王はハーンはヨーロッパに見習い近代化を進めた

しかし国民には受け入れられずに 結局 近代化は失敗に終わった 国王はイタリアに亡命する

第2次大戦後 アフガニスタンはインドから独立したパキスタンと国境を接することになる

冷戦時代 アフガニスタンは社会主義のソ連陣営に

一方パキスタンは資本主義のアメリカ陣営についた

その後 アフガニスタンはソ連が侵攻して来るまでの間 平和が続く

1973年 王政が廃止され 1978年 社会主義国となる

1979年 – 1989年 ソ連侵攻 アフガンが内乱状態になり ソ連がアフガンに侵攻する

ソ連の目的はアフガンの社会主義崩壊を防ぐ事 

一方アメリカはムジャヒディンと言う アフガン反政府勢力を支援する ゲリラ戦に突入し内戦は泥沼状態となる 

あのビンラディン(911実行犯のサウジアラビア人)もアメリカゲリラ組に加わりアフガン内戦に参加!

アフガニスタン人は難民となって周辺国に移り住んでいった

のちにアメリカの支援を受けたゲリラ側が勝利しアフガニスタンの政権を取り

1996年 イスラム原理主義 過激派のタリバン政権が誕生する

冷戦(アメリカとソビエトの対立)崩壊後 アメリカニューヨークで911テロ事件が起き

そして対ソ連のためにアメリカが作り出したタリバン政権は 皮肉にもアメリカ軍によってつぶされる 
<宗教>

イスラム教徒の大半はスンニ派でシーア派(イランイラク)は少数派

(エメナルドに関するニュース)
米や小麦の値段も上がり治安が悪化する中 アフガニスタンではエメナルドダッシュが起こっている

アフガニスタンでは質のいいエメナルドが取れる

岩山にドリルで穴をあけ爆薬で爆破し岩を砕く

作業員の賃金は安いがエメナルドを掘り当てればそれがボーナスとなる

爆薬は内戦中の地雷を解体し使用 かなり危険な作業となる

しかし掘り当てるのはかなり難しく何年たっても見つからない人がほとんど

爆破の際 事故で亡くなることも しばしば

良質なエメナルドは100万円以上 10年分の収入を一度に得ることが出来る

アフガニスタン産エメナルド
エメナルド

(凧あげに関するニュース)
タリバン崩壊以降 それまで禁止されていた娯楽が次々と復活している 凧あげもその一つ

ケンカだこ 凧をあげながら相手の糸を切る 糸が切れた方が負けとなる

大人同士の真剣勝負となる 糸にはすり潰した米とガラスの粉がまぶしてある

さらにタコ糸を強化するためにガラス(粉)の入った液体に何度も糸を浸し乾かす

完成した糸は針金のように丈夫 さらに糸鋸のようにギザギザになる

隣国パキスタン(ラホール)の凧あげ祭り

<料理>

(カライ)
ひき肉のトマトソースに半熟卵を落とした料理 

中華鍋で作る パキスタンにも同じ名前の料理がある

カライと言っても決して辛くない

(ナフォト)
豆と芋を使ったアフガニスタン料理 軽食 

メソポタミヤ原産のひよこ豆とジャガイモを使用

ナフォト

(バーデンジャン ブラニ)
ナス煮込みのヨーグルト和え

アフガンの家庭料理でスタミナ料理でもある

バーデンジャン ブラニ

(ボラニカチャル)トマトとジャガイモとヨーグルトを使った料理

ボラニカチャル

(アシャク)水ギョーザ あんには緑の野菜しか使わない しかしソースにひき肉を使用

ミートソースにヨーグルトの酸味

(サブジパラク)ニラとほうれん草のお浸しニンニクが味の決め手

サブジパラク

(コブリウズベク)炊き込みご飯 ウズベキスタン料理の一種 プロフとも言う 

ウズベキスタンでは野菜と肉を炒めた後 炒めた具材に水と米を入れて炊く 

一方アフガニスタンでは 炒めた具材を煮込んだ後 いったん具材を取り出し

余った煮汁に米を入れたく 取り出した具材はご飯が炊けた後 上に乗せ盛り付ける

煮込むときにトマトも一緒に入れ圧力なべで煮る 日本の米で作るときは水の量を減らす

一方 インディカ米で炊くときは水を多めに入れる

(カブリパラオ)骨付き鶏肉を使った炊き込みご飯 

味の決め手は干しブドウ 

カブリパラオ

(チュキデトゥトゥ)桑の実を使ったデザート 

ナッツ類を砕き粉をブロック状に固める

チュキデ トゥットゥ

<アフガニスタン> 2200年前 ギリシャ人が築いたパルテノン神殿のような遺跡がある

ギリシャ人は昔から高度な建築技術を持っていた

1961年 アフガン北部の国境地帯でアレクサンダー大王の都市遺跡が発見されたとの報告があった

元国王 ザヒルシャーが鹿狩りをしている時にその都市遺跡は見つかった

ギリシャ神殿を思わせる石の柱 石の破片には古代ギリシャの文字が刻まれていた

硬貨にはギリシャ人の肖像画 

(カブール国立博物館) 

かつてあったアイハブールの資料は博物館の2階に展示してあった

しかし博物館は戦争で破壊され貴重な資料は跡形もなくなっていた

ただ資料の一部は博物館スタッフによって保護された アイハヌムの出土品など

粉々になった巨像の指のだけが残されていた 当時 貴重な大理石が使われていた 

巨像の指2
巨像の指

大理石で出来たワインカップ

大理石で出来たワインカップ

ギリシャ語で書かれた碑文(大人になったら情熱を抑え 公平な人になりなさい 

老人になったらよい助言者になりなさい 死ぬときに悔いのないようにしなさい)など 

ギリシャ語で書かれた碑文 (2)

ギリシャ語で書かれた碑文 (1)

遺跡からはコインも見つかっている

(アイ ハヌム遺跡)
アイハヌム遺跡はアフガニスタン北部のタジキスタンとの国境近くにある丘の上の遺跡

遺跡は長い戦乱で荒れ果てた大地にある 今は治安が悪く アイハヌム遺跡 には近づくことが出来なくなってしまった

また盗掘も酷く地面には人一人入れるほどの穴が空いている 丘の上にタリバン北部戦線が残していった戦車の残骸がある

遺跡盗掘の跡
戦車の残骸2
戦車の残骸

現在 隣国 タジキスタンからアイハヌム遺跡へ行くことが出来る

遺跡は タジキスタンの首都 ドゥシャンペから200キロのところにある

象を扱うための棒が見つかっている 当時 象を扱うのが出来たのはインド人だけであった

アイ ハヌムに住むギリシャ人は自分たちが信仰する宗教いがいの宗教にも寛容だった

約150年もの間 栄えてきたアイ ハヌムだったが その後 北方から侵略を受け滅亡してしまう

アイ ハヌム遺跡の場所
アイハヌム遺跡


<もくじ>
1基本情報+歴史(料理)
2バーミヤン仏教遺跡
3ハッダ ラニガト仏教遺跡
~ガンダーラ仏教の成り立ち~