テスト

15世紀

1431年 スコータイ王朝(タイ)を併合したアユタヤ王朝(タイ)がアンコール朝(カンボジア)に攻めて来る 首都アンコール トムは陥落し アンコール朝は滅亡した

16世紀

ポルトガル人の商人やカトリック宣教師がカンボジアにキリスト教の布教活動に訪れる 続いて スペインやオランダ人もカンボジアへやって来る

16世紀 ベトナム北部の王朝が南部のチャンパ王国を攻め滅ぼし その時 多くのベトナム難民がカンボジアに押し寄せた

17世紀

1618年 プノンペン郊外のウドンにカンボジア王国が築かれる

1632年森本と言う僧侶がアンコールに来て壁に文字を刻んでいった

1643年 カンボジア オランダ戦争が勃発する カンボジア国内のクーデターがもとで起こった戦争 オランダ側 数百人の戦死者に対しカンボジアは1000人の戦死者を出したが 結果はカンボジアの勝利 オランダはカンボジア内の影響力を失った

17世紀半ば フランス人がカンボジアを訪れる

17世紀 タイやベトナムの王朝がカンボジアへ侵略する

17世紀末 カンボジアはベトナム王朝の支配下に入る

18世紀

1788年 清越戦争(ベトナムVS中国)が勃発しベトナムの支配下にあったカンボジアも戦争の影響を受ける 結果 ベトナム王朝が崩壊し フランスの影響を受けたグエン朝(ベトナム新王朝)が政権を取る

清越戦争( ドンダーの戦い)

19世紀

1831年 タイが当時ベトナム領だったカンボジアの領土を狙い第一次泰越戦争(タイVSベトナム)が勃発する 結果 ベトナムがタイを撃退しカンボジアの領土を守った

1841年 第二次泰越戦争(タイVSベトナム)が勃発する 戦後 両国に平和条約が結ばれ ベトナム領カンボジアはタイとベトナムが共同管理することで決着した

1863年 カンボジアはタイやベトナムの脅威から逃れるため自らフランスの保護国となった そして その後 フランスがカンボジアを統治することになる

1866年 フランス領 カンボジアの首都がウドンからプノンペンに移される

カンボジア プノンペンの王宮

1867年 フランスがカンボジアを統治することをタイが正式見認めた それにより カンボジアはフランス領インドシナに編入されることが決まった

19世紀 インドシナ(ベトナム カンボジア ラオス)を統治するフランスはカンボジアやラオスの役人にフランス人の言う事を聞くベトナム人を使った そのような間接的な統治を行うことで直接フランスが批判を浴びるのを回避した 

19世紀末 アンコールワットはフランス人の昆虫学者により発見された 周囲5.5キロの遺跡

世界3大仏教遺跡の一つアンコールワット(カンボジア)

20世紀

1940年(第二次大戦中) ベトミンはベトナム共産党だけでなくカンボジア共産党とラオス共産党が合併したインドシナ共産党として活動していた

(同年)フランス本土はナチス ドイツの手に落ちたためインドシナ(ベトナム ラオス カンボジア)にはナチスと同盟を結んでいた日本軍が駐留することとなった

(同年)カンボジアとラオスの領土をめぐってタイとフランスの間で衝突が発生する。タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発する 約半年間続いた戦闘はタイ側の勝利 

タイはラオス カンボジアの一部の領土をフランスから譲り受ける

またタイのバンコクにはこの時の勝利を記念する記念碑が建っている

タイ・フランス領インドシナ紛争 の戦勝記念日(タイ バンコク)

1945年 カンボジアのシアヌーク国王は日本軍の協力の元 カンボジアの独立宣言を行った

シアヌーク国王

1946年 インドシナ(ベトナム ラオス カンボジア)から撤退していたフランス軍が第2次大戦後 再び戻って来た

タイがフランスとの戦争で勝ち取ったラオス カンボジアの領土(一部)は第2次大戦後 再びフランスが統治することとなる

1953年 フランスはベトナムとの独立戦争で大敗を期したことで ようやくベトナム ラオス カンボジアは独立を果たすことが出来た。

カンボジアはシアヌーク新国王の元 新たな国家作りがなされた

1955年 共産党一掃を狙うアメリカがベトナムの地へ乗り込んできた そこにベトナム戦争が勃発した その後 泥沼と化したベトナム戦争にラオス カンボジアも巻き込まれて行く事になる

ベトナム戦争

1964年 ベトナム戦争時 北ベトナムがソ連や中国から受け取った大量の軍事物資をラオス カンボジアを経由し南ベトナムへと送った

アメリカはその輸送路をホーチミンルートと呼んだ 最終的にホーチミンルートは4000キロに達した

そのホーチミンルートを断つためと米軍はラオス共産党を一掃するためにラオスやカンボジアにまで空爆を加えるようになる

ホーチミンルート

1965年 カンボジアはアメリカとの国交を断絶した

1970年 アメリカは自国のスパイ組織CIAを使いシアヌークのモスクワ外遊中にクーデターを起こさせシアヌーク政権を転覆させた シアヌークの失脚からカンボジアは その後 20年間続く内戦へと突入する

親米派ロンノルを建てクメール共和国を作らせた 帰国できなくなったシアヌークは北京に拠点を置いてソ連や中国共産党と手を組み遠くから親米派ロンノル政権と戦う事となる

特にシアヌークに全面的に協力をしていたのが北朝鮮であった 北朝鮮の兵士がシアヌークの警護に当たった

親米派ロンノイはアメリカと敵対関係にある南ベトナム反政府組織(南ベトナム解放戦線 通称ベトコン)の迫害と虐殺を行った

結果 カンボジアに住むベトナム系住民は50万から20万に激減した

さらに親米派ロンノイはホーチミンルートを破壊するため米軍と南ベトナム軍のカンボジア侵攻を認めた

米軍のカンボジア空爆により数十万の農民が犠牲となり200万の難民を出した。

親米派ロンノイは国民の恨みを買い 反政府活動は激化した

そこで親米派ロンノイ政権に対抗すべく共産党主体のカンプチア民族解放戦線(クメールルージュ)が結成される ポルポト率いるクメールルージュはのちに自国民の大量虐殺を行う

ポルポト

 

1971年 アメリカは親米派ロンノイを支援するため南ベトナム軍の一部をカンボジア内戦へ派遣した

1973年 米軍はベトナムから完全撤退したため親米派ロンノイは大きな後ろ盾を失った

ベトナム戦争でカンボジアは大量の農地を失い 結果 米の値段が急騰した

1975年 ベトナム戦争が終結してもカンボジア内戦は続いていた そんな中
 
 クメール共和国の最後の砦が反政府軍により陥落した 最終的に親米派ロンノイはハワイへと亡命した シアヌークは帰国を果たすがポルポトにより幽閉されてしまう

(同年)ポルポト派クメールルージュが政権を取り首都プノンペンに入場した ロンノイ政権下にあった人物はすべて殺害された さらにカンプチア解放戦線側に付き取材を行っていた外国人記者も殺されていた(後になってから分かった)

※ポルポトは元エリートでフランス留学中にフランス共産党に入党していた

極端な思想を持つポルポトはプノンペンの住民200万人をすべて農村へ移住させた 重病人や妊婦も例外なく強制移住(立ち退き)させられた 抵抗したものは すべてその場で射殺された

炎天下の中 何日間も歩かされたため死者も多発した。

1976年 クメールルージュ(ポルポト)からなる民主カンプチアが成立する

民主カンプチアの国旗

ポルポトは原始国家(原始共産制)を目指すため貨幣の使用を禁止した 

当時 幽霊都市と化したプノンペンには誰もおらず紙幣だけが無造作に散乱していた

ポルポトは共産主義の思想の元 徹底的な宗教弾圧を行った アンコールワット遺跡も その時の出来た傷跡が今も残っている 学校や病院を廃止した。

子供は5歳になると親元から離され国家による共産主義教育を徹底的に叩き込まれた

またポルポトは知識人や富裕者は将来自分の敵になる可能性があるので すべて殺害した。学校の先生や眼鏡をかけているという理由だけで殺された。

海外にいた留学生は新しい国家作りに協力してくださいと呼びかけ帰国後 殺害された

またクメールルージュ内の粛清(反乱の兆しのあるものや親ベトナム派)など大量に虐殺されて行った

さらに飢餓やマラリアは発生し死者は合計100万~300万以上と言われている

 当時の人口600万人の半分以上が亡くなった計算になる

1978年 ポルポトはベトナムと国交を断絶し ベトナム領内に攻撃を仕掛けた

当時ベトナムはソ連との関係を強化していた 一方中国はソ連と対立関係にあったため 中国はポルポトの支援に回った 実は中国だけでなくベトナムと対立関係にあったタイやアメリカや日本(親米政権)も残虐な独裁者ポルポトポを指示していた

(同年) ベトナムのバクチュン村(カンボジア国境)でポルポトによる大虐殺が起こるベトナムの民間人3157人が無抵抗のままポルポト軍の虐殺を受けた

この事件を切っ掛けにカンボジア ベトナム戦争へと発展する

ベトナムへ逃げ込むカンボジア人も少なからずいてベトナムに助けを求めた

1978年 ベトナム軍 10万がカンボジアへ向け総攻撃を開始する

その時 ベトナム軍が 初めてカンボジアで行われていた虐殺の実態を目にする 地面がすべて人骨で覆われ 死体が腐ったにおいで覆われてた

ポルポト政権はわずか2週間で崩壊する その後 ポルポトはタイ国境近くのカンボジア北部のジャングルの中へ逃げ込む ポルポトは木材とルビーをタイへ密輸し財力を蓄えていた

1979年 ベトナム軍がカンボジア プノンペンを陥落させる
プノンペンで幽閉されていたシアヌークは再び中国 北京へと亡命した

同年 親ベトナム ヘンサムリン政権(ベトナムの傀儡かいらい政権)からなるカンプチア人民共和国が設立される 

ヘンサムリン  

カンプチア人民共和国の国旗

 
同年 ポルポトと同盟関係にあった中国はベトナムに報復攻撃を仕掛ける 中越戦争が勃発した。

ベトナム軍は実戦経験が豊富で しかもアメリカ軍がベトナム戦争時 残していった最新兵器を使用していた

そのため中国人民解放軍20万がベトナムの領土へ進行するが返り討ちに会い大量の戦死者を出したまま撤退する 中国軍の死者2万人に対してベトナム軍は7千人であった

1989年 10年以上続いたカンボジアベトナム戦争は決着がつかないままベトナムはカンボジアから撤退した。結局 ベトナムはカンボジアでポルポトと政権打倒の目標を達成しないまま5万人の戦死者を出し撤退した(ベトナム戦争で同じく目標を達成しないまま撤退したアメリカ側の戦死者5万人と同じ数であった)

ベトナム撤退後もカンボジア内戦は引き続き行われた

1993年 20年以上続いたカンボジア内戦は国連が仲介する形でやっと終結した
内戦の犠牲者は50万人とされている

シアヌークが帰国し新たな国家作りが国連暫定政府の元 行われた

1998年 ポルポトは山中で死亡 今でもポルポトの小さなお墓がカンボジア国内に残っている

ポルポトの墓(綺麗にしてくださいと書かれたの看板)

2004年 シアヌークが退位し息子のノロドム シハモニが国王に即位した

ノロドム シハモニ

2006年 国連の協力の元 カンボジア特別法廷が設置されポルポト政権下で行われた虐殺などの犯罪行為が裁かれている 

(同年)タイとカンボジアの国境にある世界遺産プレアビヒア(タイ名 プラーサート・プラウィハーン)が2008年 カンボジアの世界遺産として登録される

それに抗議したタイ軍とカンボジア軍の間で国境紛争が発生した。死傷者10数人を出す惨事となった

その後 国際司法裁判所で両軍の撤退を命じられ 判決の結果 プレアビヒアはカンボジアの領土と認められた

プレアビヒア3
19位 プレアビヒア(カンボジア タイの国境)

<目次>
追加情報 カンボジアの歴史1
追加情報 カンボジアの歴史2
1 基本情報
2 アンコールワット
3 プレアビヒア
4 プノンペン
5 バッタンバン