テスト

15世紀

1471年 2つに分裂したチャンパ王国のひとつヴィジャヤ朝は黎朝れちょう(ベトナム北部)に侵略され滅亡する

チャンパは80%の領土を失った。 大勢のチャンパ難民がカンボジアに押し寄せた。

16世紀

アユタヤ王朝(タイ)がカンボジアを統治していた時代

ポルトガル人の商人やカトリック宣教師がカンボジアにキリスト教の布教活動に訪れる 続いて スペインやオランダ人もカンボジアへやって来る

1546年~1564年 タイ アユタヤ王朝統治時代 アンコールワット内の第一回廊北面とその付近に彫刻を18年かけて彫り上げた

アンコールワット 回廊
アンコールワット 第一回廊
十字回廊

1558年~1777年

フエとホイアンを含むベトナム中央部は広南国が統治する チャンパ王国は南へと追いやられる

 その時 多くのチャンパ難民(チャム族)がカンボジアに押し寄せた

16世紀末 アユタヤ王朝統治時代 ヒンドゥー寺院アンコールワットが仏教寺院に造り変えられた 現在もアンコールワットは仏教遺跡となっている

本堂に安置されていたヴィシュヌ神は4体の仏像に置き換えられた

17世紀

17世紀 カンボジア(クメール人)がシャム(アユタヤ朝)に勝利した記念に シェムリアップに〃シャムの敗北〃 と言う地名が付けられた。

シャムリアップはアンコールワット観光する人々の宿泊地となる

1618年 プノンペン郊外のウドンにカンボジア王国が築かれる

ウドン(カンボジア)は たびたびタイやベトナムの侵略をうける

カンボジア ウドン

1623年

カンボジアはシャム(タイ)や広南国の攻撃を受け弱体化する もともとクメール文化が浸透していた南ベトナムはベトナム人が入植しベトナム化が進む  現在のホーチミン市にサイゴンと言う地名が付いた。

1632年森本と言う僧侶がアンコールに来て壁に文字を刻んでいった

1643年 カンボジア オランダ戦争が勃発する ウドン(カンボジア)国内のクーデターがもとで起こった戦争 オランダ側 数百人の戦死者に対しカンボジアは1000人の戦死者を出したが 結果はカンボジアの勝利 オランダはカンボジア内の影響力を失った

1693年 広南国(ベトナム)はベトナム内のクメール人居住区を占領する ウドン(カンボジア)は海へのアクセスを断ち切られ、海上貿易にはベトナムの許可が必要になった。

18世紀

1714年 
 

ウドン(カンボジア)の政権争いに広南国(ベトナム中部)とアユタヤ王朝(タイ)が介入 広南国(ベトナム中部)が勝利し 広南国はカンボジアから多くの領土を獲得する

タイ アユタヤ王朝

1739年

ウドン(カンボジア)が広南国(ベトナム中部)に奪われた領土奪還の為(25年前に奪われた領土) 10年以上戦うが失敗する

1788年から翌年にかけ 

大越国と西山朝の連合軍(ベトナム)と清(中国)との間でドンダーの戦いと言う戦争が起こる 清越戦争とも言う

この戦いで当時ベトナムの支配下にあった隣国カンボジアも戦渦に巻き込まれる

戦いはベトナム連合王朝の勝利 ベトナムは清からの支配を免れる

しかし後黎朝(北ベトナム)はこの戦いの後 滅亡した。

ドンダーの戦い

19世紀

1831年

タイが当時ベトナム領だったカンボジアの領土を狙い第一次泰越戦争(タイVSベトナム)が勃発する 結果 ベトナムがタイを撃退しカンボジアの領土を守った

 ベトナム史上 最大の領地を所有する事となった

同年 それまで昇竜(タンロン)、東京(ドンキン、トンキン)、東都(ドンドー)などと呼ばれてきたハノイが その年 ハノイと呼ばれるようになった

1841年

第二次泰越戦争(タイVSベトナム)が勃発する 戦後 両国に平和条約が結ばれ ベトナム領カンボジアはタイとベトナムが共同管理することで決着した

グエン朝は鎖国政策とキリスト教徒の弾圧を行ったが アヘン戦争ののち欧米諸国の軍事的な圧力を受け弾圧を一時緩めた

泰越戦争

1863年

カンボジアはタイやベトナムの脅威から逃れるため自らフランスの保護国となった そして その後 フランスがカンボジアを統治することになる

その後フランスは当時タイの領土であったカンボジアを占領する

1866年 フランス領 カンボジアの首都がウドンからプノンペンに移される

カンボジア プノンペンの王宮

1867年 フランスがカンボジアを統治することをタイが正式見認めた それにより カンボジアはフランス領インドシナに編入されることが決まった

1887年

フランスが統治するラオスベトナムカンボジアからなるフランス領インドシナが出来上がる その中のハノイがフランス植民地の中心となった

フランス領インドシナの地図

フランスはカンボジアやラオスの役人にフランス人の言う事を聞くベトナム人を使った そのような間接的な統治を行うことで直接フランスが批判を浴びるのを回避した そのことが原因で のちのち ベトナム人の事を良くないと思うカンボジア人が増える

※香港やマレーシア(元イギリス統治下)などにインド人が多いのも同じ理由

20世紀

1940年

フランス本土はナチス ドイツの手に落ちたためインドシナ(ベトナム ラオス カンボジア)はナチスと同盟を結んでいた日本軍が駐留することとなった

当時は まだ日米開戦には至っていなかったが中国大陸では日中戦争が繰り広げられていた。

中国の支援に回ったアメリカはベトナムの港で陸揚げされた物資を中国大陸に輸送していた 

その輸送ルートを援蒋ルート(蒋介石を援助する道)と言う 日本は そのルートを断ち切るのが目的でベトナムに入った

援蒋ルート

1941年

 ホーチミン(革命家)はフランスと日本に対抗すべくベトナム民族独立同盟 ベトミンを結成する

ベトミンはベトナム共産党だけでなくカンボジア共産党とラオス共産党が合併したインドシナ共産党として活動していた

ベトミンはアメリカと中華民国からの支援を受け日本軍とゲリラ戦をし戦った(抗日ゲリラ活動)を行う

ベトミン兵士

(同年1941年)カンボジアとラオスの領土をめぐってタイとフランスの間で衝突が発生する。

タイ・フランス領インドシナ紛争(仏印国境紛争)が勃発する 約半年間続いた戦闘はタイ側の勝利 

タイはラオス カンボジアの一部の領土をフランスから譲り受ける

またタイのバンコクにはこの時の勝利を記念する記念碑が建っている

タイ・フランス領インドシナ紛争 の戦勝記念日(タイ バンコク)

同年 1941年 タイの統治下のあったカンボジアで18歳のシアヌークが王の座に就く

若いころのシアヌーク王

1945年

明号作戦 日本軍とインドシナに駐留するフランス軍との戦い 結果は日本軍が圧勝しフランス軍はアジアから撤退した。

日本軍の協力の元 グエン朝の王族からなるベトナム帝国が建国される

日本はベトナム同様 ラオスとカンボジア(シアヌーク)にも同様の独立国を建国させた。

カンボジアの独立宣言を行った

シアヌーク国王

1946年

インドシナ(ベトナム ラオス カンボジア)から撤退していたフランス軍が第2次大戦後 再び戻って来た

第一次インドシナ戦争ではラオス王国はフランス側に付き北ベトナム軍と戦った

タイがフランスとの戦争で勝ち取ったラオス カンボジアの領土(一部)は第2次大戦後 再びフランスが統治することとなる 

一時はベトナム民主共和国(ホーチミン)の首都 ハノイがフランス軍に占領されるも その後 奪還する。

第一次インドシナ戦争

1953年 シアヌーク(30)が世界中に独立を訴えカンボジア王国の独立が達成する 

同年 反政府組織 クメールルージュ(のちのポルポト)が誕生する

クメールルージュ

1954年

 第一次インドシナ戦争(休戦)

8年間に及んだ第一次インドシナ戦争(ベトナム独立戦争)はホーチミン率いるベトナムの勝利

戦闘はベトミン側が勝利するもベトミン側の戦死者は約50万にも達した(フランス側は7万5千の戦死者)

第1次インドシナ戦争の巻き沿いを食ったラオスでは引き続きラオス王国とラオス共産党の内戦は続く

カンボジアはシアヌーク新国王の元 新たな国家作りがなされた

1955年

 フランスが去ったあと今度は大国アメリカがベトナム(共産党)退治にやって来た そこに米軍をはじめ多くの国が参戦したベトナム戦争が始まる

隣国のラオス カンボジアもベトナム戦争の戦渦に巻き込まれて行く

ベトナム戦争

1964年

南ベトナム(反米組織=通称ベトコン)は北ベトナム(ホーチミン)から支援を受ける

北ベトナムが同じ共産党国家 ソ連や中国から受け取った大量の武器をラオス カンボジアを経由し南ベトナム(ベトコン)へと送った

アメリカはその輸送路をホーチミンルートと呼んだ 最終的にホーチミンルートは4000キロに達した

アメリカは そのホーチミンルートを断つためと米軍はラオス共産党を一掃するためにラオスやカンボジアにまで空爆を加えるようになる

米軍のカンボジア空爆により数十万の農民が犠牲となり200万の難民を出した。

米軍は第2次世界大戦時 米軍が日本へ落とした爆弾の3倍の量の爆弾をカンボジアに落とした。

ホーチミンルート

1965年 カンボジア北爆を行うアメリカと国交を断絶した

 

北爆2

1970年

 アメリカはカンボジアのシアヌーク政権がアメリカに協力的ではないとみて政権転覆を狙った。

アメリカは自国のスパイ組織CIAを使いシアヌーク(カンボジア国)のモスクワ外遊中にクーデターを起こさせシアヌーク政権を転覆させた

帰国できなくなったシアヌークは北京に拠点を置いてソ連や中国共産党と手を組み遠くから親米派ロンノル政権と戦う事となる

特にシアヌークに全面的に協力をしていたのが北朝鮮であった 北朝鮮の兵士がシアヌークの警護に当たった

その後 23年間続くカンボジア内戦へと突入する 

カンボジア内戦化でアンコール遺跡群にも被害が及ぶ

アメリカはカンボジアにアメリカの傀儡(かいらい)政権を立ち上げる 

親米派ロンノル(カンボジア人)はホーチミンルートを破壊するため米軍と南ベトナム軍のカンボジア侵攻を認めた

親米派ロンノイ(カンボジア)はアメリカと敵対関係にある南ベトナム反政府組織(南ベトナム解放戦線 通称ベトコン)の迫害と虐殺を行った

結果 カンボジアに住むベトナム系住民は50万から20万に激減した

親米派ロンノイは国民の恨みを買い 反政府活動は激化した

ロンノル

1971年

アメリカは親米派ロンノル(カンボジア)を支援するため南ベトナム軍(アメリカの傀儡政権)の一部をカンボジア内戦へ派遣した

1973年

アメリカはベトナムでの十分な成果を得たと宣言しベトナムから撤退した。(実際は敗北宣言) ベトナム戦争が終わった 戦争は共産党軍の勝利で終わった  ベトナム戦争の巻き沿いを食った隣国のラオス カンボジアは その後 も内戦状態は続く

1973年 ベトナム戦争 米軍撤退

1975年 ベトナム戦争が終結してもカンボジア内戦は続いていた そんな中
 
 クメール共和国の最後の砦が反政府軍により陥落した 最終的に親米派ロンノイはハワイへと亡命した シアヌークは帰国を果たすがポルポト(元カンボジア国王)により幽閉されてしまう

(同年)ポルポト派クメールルージュが政権を取り首都プノンペンに入場した 

ポルポトは元エリートでフランス留学中にフランス共産党に入党していた

ポルポト

ロンノイ政権下にあった人物はすべて殺害された さらにカンプチア解放戦線側に付き取材を行っていた外国人記者も殺されていた事が後になってから分かった

極端な思想を持つポルポトはプノンペンの住民200万人をすべて農村へ移住させた 

炎天下の中 何日間も歩かされたため死者も多発した。

重病人や妊婦も例外なく強制移住(立ち退き)させられた 抵抗したものは すべてその場で射殺された

1976年 クメールルージュ(ポルポト)からなる民主カンプチアが成立する

民主カンプチアの国旗

ポルポトは原始国家(原始共産制)を目指すため

学校や病院を廃止した。貨幣の使用を禁止した 

当時 幽霊都市と化したプノンペンには誰もおらず ただの紙切れとなった紙幣だけが無造作に散乱していた

 
子供は5歳になると親元から離され国家による共産主義教育を徹底的に叩き込まれた

またポルポトは知識人や富裕者は将来自分の敵になる可能性があるので すべて殺害した。学校の先生や眼鏡をかけているという理由だけで殺された。

海外にいた留学生は新しい国家作りに協力してくださいと呼びかけ帰国後 殺害された

またクメールルージュ内の粛清(反乱の兆しのあるものや親ベトナム派)など大量に虐殺されて行った

さらに飢餓やマラリアは発生し死者は合計100万~300万以上と言われている

 当時の人口600万人の(3分の1から)半分以上が亡くなった計算になる

ポルポトは共産主義の思想の元 徹底的な宗教弾圧を行った アンコールワット遺跡も その時の出来た傷跡が今も残っている

1978年

隣国カンボジアで新たに誕生したポルポト政権はベトナム領内を攻撃する そしてベトナムとの国交を断絶した

当時ベトナムはソ連との関係を強化していた 一方 同じ共産国でも中国はソ連と対立関係にあった そのため中国は反ベトナム(=反ソ連)思想のポルポトの支援に回った 実は中国だけでなくベトナム(共産党国家)と対立関係にあったタイやアメリカ さらに日本(親米政権=自民党)もポルポトポ(残虐な独裁者)を指示していた

ポルポトはカンボジア国内だけでなくベトナムのバクチュン村(カンボジア国境)でも大虐殺を行う

実はベトナムへ助けを求め逃げ込むカンボジア人も少なからずいた

ベトナムの民間人3157人が無抵抗のままポルポト軍の虐殺を受けた

この事件を切っ掛けにカンボジア ベトナム戦争へと発展する

カンボジア ベトナム戦争

カンボジア ベトナム戦争 勃発

 ベトナム軍 10万がカンボジアへ向け総攻撃を開始する

その時 ベトナム軍が 初めてカンボジアで行われていた虐殺の実態を目にする 地面がすべて人骨で覆われ 死体が腐ったにおいで覆われてた

カンボジア ポルポト政権はわずか2週間で崩壊する その後 ポルポトはタイ国境近くのカンボジア北部のジャングルの中へ逃げ込む ポルポトは木材とルビーをタイへ密輸し財力を蓄えていた ベトナムを嫌っていたタイ政府はポルポトを陰で支援していた

ポルポト大虐殺の後 大量の人骨が発見された

1979年

 ベトナム軍がカンボジア プノンペンを陥落させる
ポルポト政権下で幽閉されていたシアヌーク(元カンボジア国王)は再び中国 北京へと亡命した

同年 親ベトナム ヘンサムリン政権(傀儡かいらい政権)からなるカンプチア人民共和国が設立される

カンプチア人民共和国の国旗
 

ヘンサムリン  

 
同年 ポルポトと同盟関係にあった中国はカンボジアに侵攻したベトナムに報復攻撃を仕掛ける 中越戦争が勃発した。

中越戦争

1989年

10年以上続いたカンボジアベトナム戦争は決着がつかないままベトナムはカンボジアから撤退した。

ベトナム側の戦死者5万人(ベトナム戦争で同じく共産党打倒の目標を達成しないまま撤退したアメリカ側の戦死者5万人と同じ数であった)

1992年

自衛隊が国連平和維持活動(PKO)のためにカンボジアへ派遣される

 

pko カンボジア

1993年 23年以上続いたカンボジア内戦は国連が仲介する形でやっと終結した
内戦の犠牲者は50万人とされている

シアヌークが帰国し新たな国家作りが国連暫定政府の元 行われた

2004年 シアヌークが退位し息子のノロドム シハモニが国王に即位した

ノロドム シハモニ

1998年

ポルポトは山中で死亡 今でもポルポトの小さなお墓がカンボジア国内に残っている

ポルポトの墓(綺麗にしてくださいと書かれたの看板)

21世紀

2006年 国連の協力の元 カンボジア特別法廷が設置されポルポト政権下で行われた虐殺などの犯罪行為が裁かれている 

カンボジア特別法廷

2008年  タイとカンボジアの国境にある世界遺産プレアビヒア(タイ名 プラーサート・プラウィハーン)がカンボジアの世界遺産として登録される

それに抗議したタイ軍とカンボジア軍の間で国境紛争が発生した。死傷者10数人を出す惨事となった

その後 国際司法裁判所で両軍の撤退を命じられ 判決の結果 プレアビヒアはカンボジアの領土と認められた

プレアビヒア
プレアビヒア(カンボジア タイの国境)

2012年 カンボジア シアヌーク元国王 90歳で死去する

<目次>
追加情報 カンボジアの歴史1
追加情報 カンボジアの歴史2
1 基本情報
2 アンコールワット
3 プレアビヒア
4 プノンペン
5 バッタンバン