テスト

17世紀

1603年  ランサーン王国(ラオス)はタウング王朝(ミャンマー)から独立する 

その後 周辺国との関係も良くなりランサーン王国は奇跡の繁栄を遂げる

1612年 チッタゴンを除くバングラデッシュ
とタウング王朝(ミャンマー)はインドのムガル帝国(イスラム)の支配下に置かれる タウング王朝(ミャンマー)は衰退する一方 モン族とシャン族からなるペグー王朝は息を吹き返した

ムガル帝国時代のラールキラー

1659年

南明政府はミャンマー(ビルマ)へ亡命する

1662年 タイ アユタヤ王朝はビルマ(ミャンマー)のペグーを攻め落とした その時代 アユタヤ王朝は最盛期を迎える

ミャンマー(ビルマ)へ逃亡中の南明が滅亡する。

18世紀

18世紀 ミングォン(遺跡) 

ミングォン

18世紀 バングラデッシュにあるコックスバザール海岸(全長120キロの世界一長い海岸)はビルマの統治下にあった 

コックスバザール海岸(全長120キロの世界一長いビーチ)

18世紀 カーヴィラ王(タイ)はビルマ(ミャンマー)からチェンマイ(タイ)を奪還

1735年

東洋の半分を支配下に置いた清はミャンマー北部も支配下に置く

1749年 清がタウングー朝に清の属国になるよう朝貢を求める

 

1752年 アヴァはペグー朝に占領された後 今度はタウングー朝に占領される

その後 コンパウンド朝がアヴァを占領する タウングー朝は滅亡した

1754年 コンパウン王朝(ミャンマー)と言う新たな勢力が立ち上がりペグー王朝(ミャンマー)を撃退する そしてマンダレーを首都に置いたコンパウン王朝がビルマを再統一した 

1757年 バゴーの町は崩壊し密林におおわれる ペグー朝はコンパウン朝の支配下にはいる

1765年~1767年 
コンバウン王朝ミャンマーとアユタヤ王朝シャム(タイ)の間に戦争が起こる

1年2か月の戦争ののちアユタヤはミャンマーに滅ぼされる

 コンパンド朝の勝利で 426年続いたアユタヤ王朝はこの戦争で完全に滅亡した 

18世紀 ビルマによって滅ぼされた タイ アユタヤ王朝

1765年 国土復帰を願ったシャン族(タイ系民族)が中国へ行き清朝に助けを求めたため清緬戦争(中国VSミャンマー)が勃発した

戦闘は清朝の4度の進行を すべて退きコンパウン王朝(ミャンマー)の勝利で終わった

1766年 コンパウン王朝(ミャンマー)はアユタヤ(タイ)を攻める

1767年 アユタヤ王朝(タイ)の崩壊に伴い タイ人の華僑(中国広東省潮州系)タークシーンがタイのバンコクでトンブリー朝を開く 

トンプリー王朝はビルマ(ミャンマー)の勢力を一掃した

1769年 コンパンド朝(ミャンマー)は中国雲南省の領土をめぐり清と衝突する その戦いに敗北した コンバンド朝(ミャンマー)は清の属国となる

1777年 ビルマ(ミャンマー)が再びシャム(タイ)に攻め込んでくるがシャム王国はビルマの軍勢を撃退する

今度はシャムがヴィエンチャンに攻め込みヴィエンチャン王国をシャム国の属国にしてしまう

1785年 コンパンド朝はミャンマー南西部のアラカン王国を征服する

1785年-1786年  ミャンマーがタイに攻め込みコンパウン王朝(ミャンマー)とチャクリー朝(タイの現王朝)との間に戦争が勃発する

コンパンド朝は撃退され撤退する

19世紀

1814年 コンパンド朝はマニプル王国(インドベンガル地方)を支配下に入れる

1817年 コンパンド朝はアッサム王国(インド北西部)を支配下に入れる

1818年 ビルマ(コンバウン王朝=ミャンマー)は当時イギリスが支配していたベンガル湾(バングラ)の領土を割譲するようイギリスに要求した。

1822年 ビルマの要求にイギリスが応じなかったため ビルマ軍はベンガルに侵攻した。

ベンガル湾 (2)

1824年 インドにある小さい島の領有権をめぐりイギリスがビルマを攻撃する
そこに第一次英緬戦争が勃発した。戦闘の結果 ビルマの最南部(マレー半島の付け根)はイギリスに占領されることとなった 

1852年 再びイギリスはビルマに侵攻し第2次英緬戦争が勃発する 

この戦いにイギリスが勝利し イギリスは海に面した下ビルマ(ヤンゴンとパゴーを含むミャンマー南部と西部)の領土を支配する

ビルマ(ミャンマー)は国土の半分を失った

イギリス占領地のビルマ(ミャンマー)ではインド人が金融を華僑が商売を山岳民族が軍と警察の職を握り ビルマ人は最下層の農奴にされた

1856年

雲南省で回族(イスラム教徒)とビルマ人(ミャンマー)清朝に対してパンゼーの乱(内乱)を起こす。内乱の死者は100万人 ミャンマー タイ ラオス は難民で溢れた。 内乱は17年続いた。

パンゼーの乱

1885年 第3次英緬戦争が勃発する コンパンド朝の都 マンダレーがイギリス軍の手によって陥落する

英緬戦争

1890年 ビルマ(ミャンマー)全土がイギリスの支配下に置かれることとなった コンパウン王朝は滅亡した さらに王族はイギリスにより処刑された

ミャンマーはイギリス領インドに組み込まれビルマ州となる

イギリス領インド

1877年 ミャンマー初の鉄道開通

1880年 鉄道建設の時に 約120年ぶりに密林に覆われていたバゴーの町が発見される

イギリスはビルマの少数民族 カレン族(首長族)を使いビルマの支配を行っていた

首長族

イギリス領バングラデッシュからはイスラム教徒のロヒンギャ族をビルマに強制移住させ

独立後 民族問題が発生した。

ミャンマーからのロヒンギャ難民2
ミャンマーからのロヒンギャ難民

またビルマで収穫された農作物をインドと清朝(中国)に独占させた

20世紀

1930年~1935年にかけて アウンサン将軍率いる 反英組織 タキン党が結成される 

イギリスに対する反植民地運動が全国に広まる

アウンサン将軍

1937年 ビルマはインドからの独立を果たす イギリスの管轄下で自治権を取得する

1939年 ビルマ共産党が結成される ほかにアウンサン将軍のビルマ国民軍と人民革命党の合計3つの政党が存在していた

ビルマ共産党の国旗

1940年 日本軍は援蒋ルートを断ち切る目的でビルマに入り ビルマ独立派のアウンサンと合流する またインド独立派のチャンドラオスとも交流していた

援蒋ルート

1941年 第2次大戦中 ビルマ(ミャンマー)では(イギリス&中国VS日本&ビルマ)の戦闘が繰り広げられた

アウンサン将軍も日本軍に協力しイギリスと戦う

そのとき日本で軍事教育を受けたビルマ特別義勇軍が活躍した 

日本ビルマ軍がヤンゴンを奪還 その後 ビルマ全土をイギリスから取り戻す

ビルマは80年ぶりに祖国復帰をなす

(同年) 第2次大戦中 日本軍がタイの領土に駐留する

日本軍はカンチャナブリにアルヒル桟道橋などタイからミャンマーへと繋がる鉄道を建設した

38位 カンチャナブリ アルヒル桟道橋

1942年

ビルマは日本軍の支配下にはいる

1943年 日本の支援の下 ビルマ国が建国される 

ビルマ連邦(ビルマ国)

1944年 日本軍によるインパール作戦が決行された

目的は援蒋ルートの遮断の為 戦場となったのはインド島北部のインパールだった その無謀な作戦は史上最悪の作戦と言われ 日本側 戦死者2万6千人 参加した日本兵の殆どが戦死した  

戦闘は翌年の終戦(日本が降伏する)まで続いた

インパール作戦

1945年 終戦 ビルマ国は日本の敗戦と共に消滅 再びイギリスが植民地支配のためにビルマへ戻って来た ビルマ国政府は日本へ亡命した

1947年 国民的英雄のアウンサン将軍(アウンサンスー・チーの父親)が32歳で暗殺される

1948年 ビルマ連邦としてイギリスから独立  旧イギリス植民地(独立国)からなるイギリス連邦からも独立した

1949年 ゴールデン トライアングルのビルマ側 シャン州に中国国共内戦に敗れた 国民党軍が逃げて来る 国民党の残党は ここで麻薬を生産し独立国を立ち上げた さらにそこの麻薬組織にビルマ共産党も参入する

シャン州は もともとビルマから独立したいと言う人が多く住んでいる地域

ゴールデントライアングル

タイ メーサロン 中国国民党軍兵士がビルマを経由しこの地へ移住 武装解除と引き換えにタイの国籍を取得

タイ メーサロン

(泰北義民文史館)ビルマとの戦いで戦死した国民党軍兵士の慰霊のお寺

泰北義民文史館

1950年代 ビルマ政府はゴールデントライアングルで活動していた国民党軍(およびビルマ共産党)を一掃する

1955年 アラウンパヤー王が占領した時に ヤンゴン=(戦いの終わり)と命名した  英国統治時代は(英名ラングーン)と呼ばれていた

ヤンゴン

1962年 ビルマでクーデターが発生しビルマ社会主義計画党(別名マサラ)と言う軍事独裁政権が結成される 国家の思想は仏教と社会主義の融合 鎖国政策を実行 大統領はネウィン

社会主義国家でありながらもアメリカとの関係はうまくやっていた 
とりわけイギリスを嫌っていた キリスト教団体とNGO さらに海外企業の閉鎖を行った そのときイギリス統治時代にイギリスによって連れてこられたインド人もビルマの地を去った ナイトクラブなどの娯楽も禁止 

華僑が行っていた商店も営業停止 代わりに軍人が商売を行うことになった

仏教以外の宗教弾圧も行った キリスト教徒の多いカレン族やカチン族が被害にあった 

1970年代 左側通行から右側通行に変更した ただ車は右ハンドルが多い 特に右ハンドルの日本の中古車が多い そのため交差点の真ん中で左折する時 助手席の後ろを確認しなければならないので大変 

1983年 北朝鮮が起こしたテロ事件ラングーン事件が発生する  

全斗煥(チョンドファン)韓国大統領がビルマ(ミャンマー)を訪問した際に起こった事件

北朝鮮の工作員が仕掛けた爆弾によりアウンサン凌の屋根が吹き飛び多くの人が亡くなった

幸い 韓国大統領は到着が遅れたため無事だった

それ以降 ビルマは北朝鮮との国交を断絶する ただ現在はミャンマーとなり北朝鮮との国交は回復している

ラングーン事件 の現場

1987年 大韓航空機爆破事件が勃発する 

北朝鮮は翌年 韓国ソウルで行われるソウルオリンピックの開催を阻止するためにテロ行為を働く

中東から多くの韓国人労働者を乗せた飛行機がミャンマー上空で大爆発を起こした

北朝鮮の工作員が偽造パスポートを使い日本人に成りすまして起こした事件だった

この事件で乗員乗客115人が死亡した

その時につかまった北朝鮮の工作員により北朝鮮による日本人の拉致問題が発覚した。

1988年  ビルマ経済は低迷し国民生活は困窮したため法律に反する闇経済がはびこる

闇経済撲滅のためビルマ政府は通貨を廃止した それを発端とし反政府の民主化運動が起こった 軍が出動し市民に無差別発砲を行った

アウンサン将軍の娘 スーチーさんが母親の看病のために海外から帰国する

そしてそのままスーチーさんは民主化団体のリーダーとなる

スーチー

その年 軍事政権マサラは崩壊する

1989年 マサラに代わる新たな軍事政権が発足する

その軍事政権が国名をビルマからミャンマーに変更 

英名ラングーンをヤンゴンと改名する

1990年 与党 軍事政権は選挙で大敗したにもかかわらず政権の座を譲らなかった

選挙で勝った野党の人たちは政治犯として刑務所送りとなる

野党(民主化団体)のリーダー スーチーさんは刑罰は逃れた物の自宅軟禁となる 

1991年に軍事政権に土地を奪われた人のデモ行進が行われていた

21世紀

2005年 石油を中国に送るパイプラインが完成 

ミャンマーは欧米からの経済制裁を受けていたが その後 中国のミャンマー進出が加速する 日本もビルマ時代からの友好関係にあるミャンマーを経済的に支援していた

2006年かつての独裁者 タンシュエが星占いで首都移転を決めた 首都はヤンゴンからネピドーに移された ただ各国の大使館は そのままヤンゴンに置かれた

2007年

ミャンマーで軍事政権に反対する暴動が起き それを撮影していた日本人カメラマンが撮影中に射殺される

ミャンマーで撃たれて亡くなったカメラマンの長井さん

2008年 民主化が図られる 

2010年 国旗のデザインが変更になる 

ビルマ時代の国旗
現在のミャンマーの国旗

その年 新憲法に もとずく選挙が行われた

20年ぶりの選挙はスーチー氏が勝利する

2011年 テインセイン大統領の元 民主化が進む 

テインセイン(元)大統領とスーチーさん 後ろはアウンサン将軍

2016年地震により寺院の一部が倒壊

2016年に起きたミャンマー地震

<目次>
追加情報 ミャンマーの歴史1
追加情報 ミャンマーの歴史2
1ミャンマー 基本情報
2パガン遺跡
3古都マンダレー(インワとミングォン遺跡)
4インレー湖とカックーkakku
5ヤンゴン
6ゴールデンロック(チャイトー)
7ピィ遺跡
8ゴッティ鉄橋(ティボー)と古都ミャウー
9モンユワとパテイン
10モーラミャインとメイッティラーとミッチーナー
11ミャンマーその他の名所