テスト

紀元前1500年

マンダレーの集落では青銅器が使われ 稲作が行われていた

紀元前6世紀

紀元前6世紀 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダには紀元前6世紀のお釈迦様の毛が納めれれている

シュエダゴンパゴダ2
 

紀元前2世紀

紀元前2世紀 ビルマ(ミャンマー)南部にモン族(クメール系)中央部にピュー族が定住し始める ※中国 ベトナムに多く住むミャオ系のモン族とは別物※

モン族(クメール系)

そのころ古代インドの上座部仏教(南伝仏教)が伝わる ※日本とベトナムは大乗仏教(北伝仏教)

上座部仏教

1世紀

1世紀から8世紀にかけてビルマ エーヤワディー川の中流域あたりにピュー族が住み始める この時代 ビルマ族以外の様々に民族がビルマに住んでいた

エーヤワディー川の地図
エーヤワディー川
ピュー族の遺跡

4世紀

4世紀 ピュー族は大型の仏塔をいくつか建設し始める

5世紀

ピュー族によって 周囲80メートル 高さ47メートルのボーボージー仏塔が建てられる

ボーボージー仏塔

6世紀

6世紀 めがねを付けた大仏がシュエ ダウン村  ピィpyayに作られる 

ピィpyay シュエ ダウン村 

7世紀

7世紀(601年) ミャンマー北部にピュー人が都市国家を形成する 南部にはモン族が都市国家を形成していた

ピューの遺跡から出土した資料から 当時この地方に存在した都市国家が18の属国を従え、9の城鎮、298の集落を有していたとある

同じころ中国雲南省からビルマ族がミャンマーに入植し始める。 

7世紀半ば(651年) ピュー族は南詔国の攻撃を受け始める

8世紀

738年

六詔国(雲南全域)を統一したチベットビルマ系民が南詔国を作り大理を都にした。 南詔国は唐の属国となる 南詔国は大理(雲南)を都に置いた

大理(中国)

ビルマ族は 紀元前 中国 青海省の あたりで暮らしていたチベット族が起源だとされている 現在 ミャンマー人の70%がビルマ族

ビルマ人

754年 勢力を拡大した雲南 南詔国(チベット系ビルマ族の王朝)は次第に唐(中国)と敵対するようになる 南詔国と吐蕃(チベット)との連合軍を結成し唐に勝利する

779年 南詔国と吐蕃の連合軍は20万の兵で唐の成都を攻めるが撃退される

9世紀

808年 上ビルマ(ミャンマー中央部)は南詔国(中国 雲南)の王により乗っ取られる

 

832年 ピューの都市は南詔国に破壊され モン族とピュー族の住民3000人は南詔国によって昆明(雲南)へ強制移住させられた

849年 ビルマ族はバガンに小さな集落を作り始める パガン朝の誕生

パガンは農耕には不向きの土地であったがビルマ族はピュー族から農耕技術を学び 彼らとの接触により仏教を知ったと考えられる

都はパガンに置かれた パガンはビルマ語でピュー族の集落を意味する

やがてパガン朝はクメール帝国(カンボジア)と並んで東南アジア2大帝国となるまで大きくなる。

859年

中国 雲南省の南詔国はミャンマー タイ ラオス カンボジアを攻め さらには当時 唐(中国)の領土であったベトナム北部の交州(ハノイ)まで攻め落とした。

ミャンマー タイ ラオス カンボジア 地図

  ミャンマー ピュー王国(驃国)は南詔(中国 雲南チベットビルマ系)により滅ぼされる 

南詔国(大理
ピュー族の遺跡

862年~866年 唐の管轄下にあったハノイは一時 南詔国(雲南省)の支配下にはいる

10世紀

902年 雲南 南詔国の宮廷内で殺人事件が発生し800人が亡くなった。その事件を機に南詔国は滅亡した

938年

中国 雲南省では南詔国 滅亡後 短命政権がいくつか続いたのち 大理国(中国 雲南省)が建国される

994年 バゴーに黄金の涅槃仏が建てられる  映画ビルマの竪琴に登場する

バゴー 黄金の涅槃仏

10世紀末 ヤンゴンにモン王国のミガディパ王がシュエターリャウン(涅槃像)を建立 もともとインド風に作られたが のちにミャンマー風の作り変えられた

シュエターリャウン
 

11世紀

11世紀 海底から大きな岩が引き揚げた その大きな岩がそのままゴールデンロックとなった

チャイトー ゴールデンロック2

1044年 

軍人出身のパガン王が部族をまとめ ビルマ人初の統一王朝 パガン朝が誕生する

パガン朝は厳格な仏教を信仰する上座部仏教(南伝仏教)を取り入れた 

またモン族文化を取り入れながら南下しモン族の支配地域を占領していった。

しかしモン族が使用していた貨幣制度を廃止し物の売り買いは物々交換が支流となった。

奴隷の売買も行っていた。

11世紀から13世紀にかけ3000棟もの仏塔からなるパガン遺跡群が建てられた

世界3大仏教遺跡の一つパガン遺跡群は この時代 熱心な仏教徒市民によって建てられた

 ミャンマー パガン

1084年 パガン朝 3代目国王が王位に就く(※世襲ではない)

この時代 モン族が多く住むパガン朝の支配地域にクメール帝国が侵攻

パガン朝はクメール帝国を撃退し 以降 王朝の全盛期を迎える事となる

1087年 タイ東部 ラオス カンボジアからなるモン族 ラヴァ王国はパガン(ミャンマー)の侵略をうけるが その後 撃退する

12世紀

1165年 パガン朝 第4代国王を殺害した 4代目の息子が5代目の王に就く

1171年 パガン朝はシンハラ朝(スリランカ)と交易上のトラブルが発生し そのことが原因となり5代目のパガン王は殺害される 5代目の息子が6代目の王となる

1174年 パガン朝7代王はシンハラ朝(スリランカ)との関係を改善し

さらにパガン朝の領土をマレー半島(タイ南部とマレーシア)の付け根まで拡大した。 

13世紀

1235年 パガン朝 9代目王は寺を多く立てすぎて財政を圧迫した 王国の治安も悪化し王朝の陰りが見え始めた

1238年 

タイ初の統一王朝スコータイ王朝が誕生する

スコータイ王朝(タイ)がアンコール王朝(カンボジア)とラヴォ王国(タイ)から独立※一部 ラオス ミャンマーの領土を含む 

スコータイ(タイ)

1256年 パガン朝 10代目の王は何者かにより暗殺された

1277年 から10年に渡り元緬戦争(モンゴルのビルマ侵攻)が行われる パガンの戦いでビルマ軍は敗北する ビルマ北部を元(モンゴル)が支配する 当時ビルマ北東部にはタイ系民族のシャン族が多く暮らしていた

モンゴル軍

元(モンゴル)はパガン朝(ビルマ=ミャンマー)への攻撃を始める 初戦の戦いはモンゴルが勝利した 

バガン遺跡
モンゴル(元)パガン戦争

1283年

ミャンマー北部のバモーで元(モンゴル)とパガン朝(ビルマ 現ミャンマー)の2度目の衝突が起こる 又してもモンゴルが勝利する

1287年 元(モンゴル)との戦いのさなかパガン朝 11代王は自分の息子に殺害される (タイ系シャン族が王の殺害に加担した)

同年 下ビルマ(ミャンマー南部と西部)でペグー王朝(モン族)がスコータイ王朝の支援を受けパガン王朝(ビルマ族)から独立する

スコータイ王朝に忠誠を誓うペグー朝の初代王は平民出身

以後 ミャンマーは北にバガン朝(のちにピンヤ朝)南にペグー朝の南北分裂状態が続く

ペグー王朝(ミャンマー)

1298年

元はビルマを占領するも現地シャン族(タイ族)の抵抗にあいモンゴルのビルマの統治はうまくいかなかった

タイ族
シャム族

14世紀

14世紀 インワはシャン族(タイ系)の遺跡

インワ

1301年 元(モンゴル)が再びビルマ(ミャンマー)に攻撃を仕掛けるが 今度はシャン族(タイ族)によって撃退される

1312年 モンゴル軍を撃退したシャン族(タイ族)がミャンマー北西部にピンヤ朝を建国する

1314年 パガン朝(ビルマ族)はピンヤ朝(シャン族)に権力を受け渡し パガン朝は滅亡した。270年の歴史に幕を下ろした。

1347年 ビルマ族からなるタウングー朝が誕生する 王朝は始め小さな集落から始まる 

バガン朝崩壊後 シャン族が統治するミャンマーで弾圧を受けたビルマ族がタウングー朝の領土に逃げ込み

徐々にタウングー朝の規模が大きくなっていった

タウング王朝はヨーロッパとの交易で栄え ポルトガルの傭兵を雇う

1368年 ビルマ最大のシャン族国家 アヴァ王朝が誕生する(ピンヤ王朝よりも大きい)

1385年 民族紛争が激化しミャンマー全土が内戦となる 40年戦争が始まる

1390年 ペグーとアヴァの戦争は稲の収穫が終わる時期に行われ稲を植える雨季になると いったん戦争は中断された

15世紀

1415年 ペグー朝の西部がアヴァ朝の支配下に入った

 

16世紀

16世紀 ポルトガルから大砲や鉄砲の武器が伝わると3国(アユタヤ クメール ビルマ)の争いは一層激しくなった 城壁が築かれた

1523年 ラーンナー王国(チェンマイ)はチェントン(ミャンマー)出兵し大敗を期す

1539年 ペグー朝は北から攻めてきたタウングー朝とポルトガル兵(傭兵)によって占領される

ペグー(現在の呼び名はバゴー)はタウングー朝の都となった

1548年 タウングー王朝(ミャンマー)とアユタヤ王朝(タイ)の間に1回目の戦争が起こる 緬泰戦争(又は泰緬戦争) 

戦争のきっかけはアユタヤ王朝でクーデターが発生したのをチャンスと見てタウングー朝が領土拡大のためにアユタヤ朝に攻め込んだのが始まり

アユタヤ王朝はこの戦争で王妃を亡くしている。

タウングー王朝はポルトガルの傭兵からなる鉄砲隊700人を雇った 一方アユタヤ王朝も防衛のためにポルトガル人の傭兵を起用する 

戦闘の結果はアユタヤがタウングー王朝(ミャンマー)の侵入を防ぎアユタヤ王朝の勝利

両国の戦争はその後 約300年の間に19回も起こった

タウングー朝はモン族を手厚く保護したが それによってモン族の力が強まった

1550年 ビルマ タウングー朝の王がペグー朝の子孫によって殺害される

ビルマは タイ アユタヤ朝を制圧するが しかしその後アユタヤが領土を再び取り戻す

1554年 タウングー朝はアヴァ朝の都と占領する そしてミャンマー中央部全体を支配する

1557年 タウング王朝(ミャンマー)によりチェンマイ(タイ)が陥落する

1558年 タウングー朝はランサーン王国(ラオス)に侵攻しランサーンを属国にした

1559年 タウング王朝は東インドのあたりまで勢力を伸ばす インドとミャンマーの国境 マニプールを併合する

1560年 ランサーン王国(ラオス)はタウング王朝(ミャンマー)との戦いに備えて首都をルアンパバーンからビエンチャンへ移す

1563年 第二次緬泰戦争でタウングー朝がアユタヤ(タイ)へ侵攻し占領する

1568年 第三次緬泰戦争が勃発 戦争はアユタヤ王朝がタウングー朝の属国になることで決着した

タウング王朝 全盛期の領土

タイ アユタヤ遺跡 ワットプラ マハラタート 多くの仏像の首がビルマ軍の侵攻によりはねられている ところどころ黒焦げている 仏塔も倒壊 かつては黄金の仏塔が立っていた

ワットプラ マハラタート 提樹(ぼだいじゅ)の木に埋もれた仏像の頭

ビルマがアユタヤを制圧(1回目)の時に建てられた仏塔 ワットプーカオトン など

ワットプーカオトン

1570年 アユタヤ王国(タイ)はタウング王朝(ミャンマー)によって一時的に滅ぼされる(アユタヤ王朝はのちに復活する)

1571年 タウング王朝(ミャンマー)がランサーン王国(ラオス)の首都ヴィエンチャンを攻めたが、食糧補給路の確保に苦慮し、撤退していった

1573年 明がタウングー朝に攻撃を仕掛けタウングー朝に占領された一部の地域を解放させた。 

1574年 ランサーン王国(ラオス)の首都ヴィエンチャンはタウング王朝(ミャンマー)に攻められ陥落する 

ランサーン王朝(ラオス)はタウング(ビルマ人)支配のもとで存続を続ける

当時最強を誇ったタウングー王朝(ミャンマー)の都 タウングー

タウング王朝(ミャンマー)は中国雲南省 景紅のシップソンパーンナーを支配下に置く

景洪 シーサンパンナ
タイ族 水かけ祭り

1581年 アユタヤ王朝(タイ)はタウング王朝(ミャンマー)からの独立を果たす。

<目次>
追加情報 ミャンマーの歴史1
追加情報 ミャンマーの歴史2
1ミャンマー 基本情報
2パガン遺跡
3古都マンダレー(インワとミングォン遺跡)
4インレー湖とカックーkakku
5ヤンゴン
6ゴールデンロック(チャイトー)
7ピィ遺跡
8ゴッティ鉄橋(ティボー)と古都ミャウー
9モンユワとパテイン
10モーラミャインとメイッティラーとミッチーナー
11ミャンマーその他の名所